だった。花散る里を、後日お染さんによそえたのは、お染さんを忘れない日に見たその庭に、一本の梅の木があって、花が咲いていたのが、そんなふうに思わせる種だったのかも知れない。
お染さんのことで、母が、こんなことをいったのを、子供は耳をとめていたのだ。
「お染さんが手拭《てぬぐい》を出すのに、どれにしようかって、葛籠《つづら》をあけると、役者の手拭ばかりが一ぱいはいっていて――」
あきらかに、驚嘆しているうちに、お染さんの何かを語っていたが、法印さんが死にでもしたのか、それきり家とは縁のない人になってしまった。
「乾山《けんざん》の皿はどっさりあったのだが、みんな、法印に賺《す》かされて、もってってしまわれやがった。」
父は巻舌《まきじた》で、晩酌をやりながら、そんなことを言った。法印さんは、そんな品《もの》も見る眼があったのだろう。
「おたきは、法印が仲人《なこうど》だもんだから。」
と、母が遠慮して、ほしがると何んでもやったというふうにいったが、母は、深川の豪商、石川屋という廻船問屋の御新造で、花菊といった自分の伯母さんの手|許《もと》に、小間使をしていたのだから、法印さんは、その廻船問屋のかまど[#「かまど」に傍点]さまもお払いをしていたわけなのであろう。
ある日、お宅に法印さんが来るなら、宅《うち》でも御祈祷してもらいたいと頼んで来たのは、横浜の弗《ドル》相場で資産《しんだい》をこしらえ、メキメキと派手な暮しを展開してきた、古鉄から鉄物問屋になった四ツ岸だった。
鉄物問屋はみんな景気がよかった。古鉄をあつかった店なんかでも、すっかり紳商になってしまって、古い暖簾《のれん》の多い金物店通りでも、成上りが多かった。裸一貫で仕上げて来た人だけに、お精進日ばかりが重なることはないから、陽気な跳返った、人間欲望をまる出しに剥《む》き出した、傍若無人な生活態度が、古い伝統の町に際立って見えた。
四ツ岸のおおかめさんは、関取のような巨大な体を、小川湯にまでもってゆくのに、角力《すもう》とりが小屋入りするような騒ぎで、謹《つつま》しい町を行列して通る。小僧が二人、箒《ほうき》と衣裳籠《いしょうかご》と時によると敷蓙《しきござ》の巻いたのを担いでゆく。女中が浴衣を抱え、おとのさんという赤熊《しゃぐま》のような縮れ毛をした、ブルドック型の色の黒いお附女中が、七ツ道具を金盥《かなだらい》へ入れて捧げてゆく。今日日《きょうび》は、花柳界もどきの、そんなふうな磨き道具を素人でも持つが、町家《ちょうか》の女房ではまずない図だった。
おおかめさんは、何時も、大勢の娘のうち二、三人を連れていた。娘たちは醜《みに》くかったが、父親に似て色の白いのや、母親似で太く逞《たく》ましいので、とにかく四隣を圧し、押えに番頭さんの女房である痩《や》せた、ヒョロヒョロの青黄ろい、皺《しわ》の多い、髪の毛が一本ならべの女が附いてゆくのだ。
その番頭さんの女房も、お附女中のおとのさんも、おおかめさんの近親であるから、おおかめさんの豪勢ぶりも粗豪で異色があり、せまい小川湯は、たちまちこの一群に占領され特設のお風呂場のごとくなってしまう。
元来、大所《おおどころ》は、みんな自宅風呂があるのだが、土一升、金一升の土地に、急にのさばり[#「のさばり」に傍点]出したものには、金づくだけではその設備をする場所がないのだ。で、豪気な、おおかめさん一家は、けちけち町湯にゆくのが業腹《ごうはら》で、白昼大門通りを異風行列で練りだすのだった。ときによると、あんぽんたんまで、その人数に加えようと、借《かり》にくるのだった。
あんぽんたんが可愛いから、売に来てやるんだと、たんかを切る、深川浜の蛤《はまぐり》町からくる、倶梨伽羅紋々《くりからもんもん》で、チョン髷《まげ》にゆっているというと威勢がいいが、七十五歳のおじいさん江戸ッ子の小魚売は、やせても昔の型を追って、寒中でも素体に半纏《はんてん》一枚、空脛《からずね》、すこし暑いと肌ぬぎで銀ぐさりをかけて、紺の腹掛と、真白い晒布《さらし》の腹巻、トンボほどな小さな丁字髷《ちょんまげ》が、滑りそうな頭へ、捻《ね》じ鉢巻で、負けない気でも年は年だけに、小盤台を二つ位しか重ねていないが、ちいさな鰈《かれい》や、鯒《こち》がピチピチ跳ねていたり、生きた蟹《かに》や芝|海老《えび》や、手長《てなが》や、海の匂いをそのままの紫|海苔《のり》と、水のように透《す》いて見える抄《すく》いたての白魚の間から、ちいさなちいさな小|蟹《かに》だのふぐだのを選《より》出してくれる、皺《しわ》の自来也《じらいや》の、年代のついたいさみの与三|爺《じい》が、
「げッ、鉄屑《かなくそ》ぶとりめ。」
と唾《つば》きを吐きかけたが、おおかめさんは、それほど豊《ゆ
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