鉄くそぶとり
続旧聞日本橋・その二
長谷川時雨
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)立食《たちぐい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)立|並《なら》んでいる
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「月+齶のつくり」、第3水準1−90−51]《あご》
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あんぽんたんとよばれた少女のおぼつかない記憶にすぎないが、時が、明治十六年ごろから多く廿年代のことであり、偶然にも童女の周囲が、旧江戸の残存者層であって、新文明の進展がおくれがちであったことなど、幾分記録されてよいものであったためか、先輩の推賞を得た拙著『旧聞日本橋』の稿を、ここにつづけることをよろこびといたします。
[#ここで字下げ終わり]
お夜食におくれて、遅く帰って来た人のお菜に、天ぷらをとりにいった女中が、岡持のふたをあけながら、近所の金持ちの主人が、立食《たちぐい》をしていたということを、
「お薬缶《やかん》のようにテラテラ光って――」
といったので、台所に湯気をあげている銅薬缶《あかやかん》の大きいのを見て、天ぷらやの屋台に立っていた、恰幅《かっぷく》のいい、額の長く光った、金物問屋の旦那さんの顔を、あんぽんたんまでが思出して、一緒に笑った。
堅気な町には、出前を重《おも》な蕎麦《そば》やがあるくらいなもので、田所町に蒲焼《うなぎや》の和田平、小伝馬町三丁目にも蒲焼の近三、うまや新道から小伝馬町三丁目通りにぬける露地に、牛肉の伊勢重があるだけだった。
現今《いま》は、人形町通りに電車が通り、道幅が広がっているが、人形町通りは大門《おおもん》通りと平行して竪に二筋ならんでいたのだが、大門通りの気風と、人形町とはまるで違っていた。人形町通りは、昔の三座や、その他の盛り場のあった名残りで、日本橋区中の繁華な場処なのに、大門通りは大商家《おおだな》が、暖簾《のれん》をはずし、土に箒《ほうき》目をたてて、打水をすましてしまうと、何処《どこ》もひっそりしてしまって、大戸をおろした店蔵《みせ》の中では、帳合がすむと通いの番頭さんは住居に帰り、あとは夜学――小僧たちが居ねむりをしながら、手習や珠算の練習をやる。尤《もっと》も、大門通りは名のごとく万治の昔、新吉原へ廓《くるわ》が移《ひ》けない前の、遊女町への道筋の名であるゆえか、大伝馬町、油町、田所町、長谷川町、富沢町と横筋にも大問屋を持つ五、六町間の一角だけがことに堅気な竪筋なので、住吉《すみよし》町、和泉《いずみ》町、浪花《なにわ》町となると、葭《よし》町の方に属し、人形町系統に包含され、柔《やわ》らいだ調子になって、向う側の角から変ってくるのが目にたっていた。そして、劃然《かくぜん》とではないが、もうそのあたりは大門通りとはよばなかった。大門通りの突当りといった。突当りの感じのするように和泉町が押出していてそれから道幅がせまくなり、ゴミゴミした裏に、松島町の長屋があったのだ。
大門通りでは、屋台店も、表筋の道路へは遠慮して出なかった。横町の、人形町側へ出はずれかける場所に、信用されている品のよい店が秋から春まで一、二軒出た。
屋台店の立食は、湯がえりの職人か、お店の人の内密食《ないしょぐい》、そのほかは、夜長の、夜業《よなべ》をしまったあとで時折買うものだと、大問屋町の家庭では下女たちまで、そんなふうに堅気にしこまれていたので、大所《おおどころ》の旦那さんの天ぷらの立食は、なんとまあ呆《あき》れたものだというわけだったのだ。示しがつかないでございましょうとお爨《さん》どんでさえいうのだ。
立食旦那の家は、店蔵、中蔵、奥蔵、荷蔵と、鍵《かぎ》の手につらなって、何処《どこ》もかも暗い大きな家だった。奥深い店の、奥の方の棚に、真鍮《しんちゅう》の火鉢の見本が並《なら》べてあるのが、陽《ひ》の光がどこからさすのか、朝の間のある時、通りがかりに覗《のぞ》きこむと、黄色くキラキラ光っていて、黄昏《たそがれ》に御仏壇を覗《のぞ》いたような店の家だった。
ああいう家は、金がうなってるんだと、よく、町の細かい人たちは噂《うわさ》していた。庭は、横の新道までぬけた広いのだのに、住居にしている中蔵の前に、コチョコチョと石を積上げた築山《つきやま》をつくり、風入れや、日光をわざと遮《さえぎ》ってしまって、漆喰《しっくい》の池に金魚を入れ、夏は、硝子《ガラス》の管で吹きあげる噴水のおもちゃを釣るした。
湯がえりの下駄の歯がカラカラ鳴って、星が光る霜夜に、
「ま、め――煎《い》りたてま、め――」
と火をぱたぱた煽《あお》ぐ音をさせたり、
「いなりさん――
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