と、十軒店《じっけんだな》の治郎さんの、稲荷鮨《いなりずし》が流してくるようにならなければ、おでんやや、蠑螺《さざい》の壺焼《つぼやき》やも出なかった。夜になると、人力車さえ通らない、この大店ばかりの町は、田舎のように静かで、夜が更け冴《さ》えて、足袋やさんが打つ砧《きぬた》が――股引《ももひき》や、腹掛けや、足袋地の木綿を打つ音が、タン、タン、タン、タン、カッツン、カッツンと遠くまで響き、鼈甲《べっこう》屋さんも祝月《いわいづき》が近づくので、職人を増し、灯を明るくして、カラン、カン、カン、カランカンカンと、鼈甲を合せる焼ゴテの鐶《かん》を、特長のある叩《たた》きかたで、鋭く金属の音を打ち響かせている。そんな晩、らんぷや行燈《あんどん》の下で、てんでの夜業をしていた家々の奥のものが、夜のお茶受けに、近所にはばかりながら買いにやるのだが――
 立食旦那の家内では、総出で、夜更けの屋台店に立|並《なら》んでいる。暖かげな、ねんねこばんてんへくるまって、襟巻きをして、お嬢《じょ》っちゃんも坊さんも――お内儀さんが、懐から大きな、ちりめんの、巾着《きんちゃく》を出して、ぐるぐると、巻いた紐《ひも》を解いてお鳥目《ちょうもく》をつかみ出して払うのを、家の者に気がつかれないように、そっと女中にくっ附いていって、女中の袖の下から、小さな梟《ふくろう》のように覗いていたあんぽんたんは、吃驚《びっくり》して眼を丸めた。
 あんぽんたんは、自由に外へ出して遊ばせて貰えないので、物干にあがって空を見たりとんぼと話したり、瓦《かわら》の間から、わらじ虫がゆっくり出てくるのを見ていたり、てんと[#「てんと」に傍点]虫を見つけたりする。そんなときに、ずっと向うの、蔵と蔵との間の低い屋根に、小さな小僧が這《はい》出して来て、重そうな布団をひっぱり出して干すのをよく見た。あの金物やの小僧は、なんで毎日ふとんをほすのかと、祖母にきくと、「寝しなに、お餅《もち》を煮て、あったかいのを、一切食べさせてやればよいのだが――としよりもいるのに。」
といったが、その年よりも、小僧も、景気のいい立食《たちぐい》には並ばない。あたしは、すこし大きくなってから、また訊《き》いた。
「なんで、あんなことをするの、みっともないのにね。」
 いつまでも、立食にこだわるようだが、問は、やっぱりそれだった。
「お金があるのにおかしい。」
 女中さんが笑ったのとは違って、子供には、家内そろって、みんな一緒でないのが訝《いぶか》しかったのだ。
「あすこは、古いお家《うち》だから、お精進日《しょうじんび》が多いのだろう。」
 ああ、なるほど――と、ちいっぽけな者にも、その意味がわかるほど、古風な紙が台所にさげてある家があったのだ。
 精進日覚、
[#ここから2字下げ]
×日  朝
×日  昼まで
×日  終日しょうじん
[#ここで字下げ終わり]
 そんなふうに書いて張ってあるが、三十日間に、幾日もあき[#「あき」に傍点]のない家もあった。御先祖さまの日、御先代の日、誰の日、彼の日、等々と、精進日つづきで、どんなけちんぼのとこでもお魚をつけるおさんじつ[#「おさんじつ」に傍点](一日、十五日、廿八日)まで、お精進が繰込んでいる。時によりものによって、魚《さかな》の方が野菜ものより安価なことのある今日とは、魚《うお》の相場が大変違うので、大勢の人をつかう大家内では、巾着と相談の上から考慮された仏心《ぶっしん》であったかもしれないが、土地がらに似合わない、洋服を着て抱え車に乗る、代言人の、わたしの父の家でさえ、毎月|晦日《みそか》そうじがすむと、井戸やおへっつい[#「おへっつい」に傍点]を法印《ほういん》さんがおがみに来て、ほうろく[#「ほうろく」に傍点]へ塩を盛り御幣《ごへい》をたてたりしても、父も別段やめろともいわなかったようだ。
 その法印さんは眼のくぼんだ、色の黒い人で、小柄で、髪の毛をチョンボリ結んでいたようだったが、はっきりとしない。神田今川小路の方の河岸《かし》つきの、引っこんだところに閑寂な小庭を持って、茶席めいた四枚障子の室《へや》がとっ附きにあって、その室のうしろは土蔵で、蔵住居らしかった。かなり物好な住居であったのであろうが、あんぽんたんがわすれないのは、法印さんではなくって、娘のお染さんという女だった。
 娘といっても、お染さんは、三十を越していたかと思うがその頃のおつくりは地味ゆえもっと若かったのかも知れない。大柄な、色の白い人で、別段|別嬪《べっぴん》とは思わないが、『源氏物語』の中の花散る里――柳亭種彦《りゅうていたねひこ》の『田舎源氏』では中空《なかぞら》のような、腰がふといようで柔らげで、すんなりしていて、裾《すそ》さばきのきれいなのが、眼にしみて消えないの
前へ 次へ
全5ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング