育ちでも、どこか女|伊達《だて》めいた気風をもって、おそろしく仁義礼智の教えを守って――姿の薄化粧のように、魂も洗おうとした。この二行ばかりの文章は、文飾のようにもとられようが、濃かれ薄かれ、そんな気持ちはたしかにあったのだ。人と、その性質は別としても、その地方色としては――
古い日記をくりかえして見ると、父が話してくれたことが書いてあるので、此処《ここ》へ抜いて見よう。
――父の晩酌のとき、甥《おい》の仁坊《まさぼう》のおまつりの半纏《はんてん》のことから、山王様《さんのうさま》のお祭りのはなしが出る。仁《まさし》の両親とも日本橋生れで、亡《なく》なった母親は山王様の氏子《うじこ》、此家《こちら》は神田の明神様の氏子、どっちにしても御祭礼《おまつり》には巾《はば》のきく氏子だというと、魚河岸から両国の際《きわ》までは山王様の氏子だったのが、御維新後に、日本橋の川からこっちだけが、神田明神の氏子になったのだと、老父《ちち》が教えてくれた。
あたしたちは神田明神へお宮参りをしましたが、お父さんは山王様へお宮参りにいったのですかときくと、そうだといわれる。
それからそれへと古いは
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