なしが出る。以下は老父《ちち》の昔語り――
玄冶店《げんやだな》にいた国芳《くによし》が、豊国《とよくに》と合作で、大黒と恵比寿《えびす》が角力《すもう》をとっているところを書いてくれたが、六歳《むっつ》か七歳《ななつ》だったので、何時《いつ》の間にかなくなってしまった。画会なぞに、広重《ひろしげ》も来たのを覚えている。二朱《にしゅ》もってゆくと酒と飯が出たものだった。
国芳の家《うち》は、間口が二間、奥行五間ぐらいのせまい家で、五間の奥行のうち、前の方がすこしばかり庭になっていた。外から見えるところへ、弟子が机にむかっていて、国芳は表面に坐っているのが癖だった。豊国の次ぐらいな人だったけれど、そんな暮しかただった。その時分四十位の中柄《ちゅうがら》の男で勢いの好い、職人はだで、平日《しじゅう》どてら[#「どてら」に傍点]を着ていた。おかみさんが、弟子のそばで裁縫《しごと》をしていたものだ。武者絵《むしゃえ》の元祖といってもいい人で、よく両国の万八《まんぱち》――亀清楼《かめせい》のあるところ――に画会があると、連れていってくれたものだ。
国芳の家の二、三軒さきに、鳥居清満《とり
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