れる代議士というものが、妙なものとして印象された。
深川の木場《きば》が、震災の幾年か前まで、土地っ子で帽子をかぶったものが歩いていなかったように、日本橋区大門通辺では、明治三十年ごろでも、帽子を被《かぶ》って歩いているものはすけなかった。それは大よそゆきの旦那《だんな》に限られた。旦那たちも紐《ひも》までこった前掛《まえだれ》をかけている。ましてお店《みせ》の人は羽織を着たのもすけない。男の子は日清戦争後、めくらじま[#「めくらじま」に傍点]の上《うわ》っぱりを着るようになって筒袖《つつそで》になった。やっぱり盲目縞《めくらじま》の(黒無地の木綿)前垂れをしめている。小僧さんが筒袖になったのはそれよりずっとあとだ。それもやや文化的商業、鉄物屋とか機械商とか、横浜と取引関係のある店からあらためはじめた。
だが、そんな小さな改良のかげにも、あらそわれない物の推移があった。父は家業がら、近所の商家からの依頼をうけるので、店の推移について心を動かされもしたのであろう、よくこんなことを言った。
「黒い、大きな判《はん》こが、朱肉になってくると、商業《あきない》の具合がちがってくるな。」
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