]になった文化の昔、伊勢のお百姓の娘にそれをのぞむのは無理であろう。
――大庄家の娘小りんの、美目《みめ》のすぐれていたことも、領主藤堂家に腰元づとめをしていた花の十八、疱痘《ほうそう》になって、許婚《いいなずけ》の男に断わられようとしたのを、自分の方から先手をうって断わったのは幾章か前に書いた。江戸の兄をたよって江戸で暮し、東京で死んだ六十九年、彼女は三十三に私の父を抱いて、通し駕籠《かご》で故郷を訪れたきり二度とゆかない。
子供を理解しない親――それはこの現代にもざらにありすぎる。男性的《おとこの》気象をもったものにも赤い襟をかけ、島田|髷《まげ》に結わせ、箱入りの人形のように玩器物《おもちゃ》として造りあげようとする一方、白粉《おしろい》をつけて、しなしなしたがるような女性的稟質男子《おんなのようなおとこのこ》を、鉄砲をかつがせたり調練をさせたりして、此子《これ》はなんでも陸軍大将にすると力んでいるのもある。
小りんさんは男性的だった。手習いがいやなのではなく、寺院《おてら》の夫人《だいこく》さんが、針ばかりもたせようとするのが嫌だったのだ。もっとも、近松《ちかまつ》や西鶴
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