らといって、途中で手をぬくようなことがあるといけないから、どうしても二ツ建てるだけの用意をしておかないとちゃんとしたものが出来ますまい。」
それは理由のある理窟だから、祖父は頷《うなず》いた。けれど、三戸前《みとまえ》分なければというのには不服だった。
「それがなぜ、もう一ツ分入るのだ。」
「では、万一、蔵の出来かかった時に天災が来たらどうします。土蔵《くら》は出来ましたが、蔵に入れる何にもなくって人手に渡しますとは、まさか言えますまい。」
なるほどと思った祖父はうなった。現今《いま》のように金融機関のそなわらない時代のことである。空手《くうしゅ》で、他人《ひと》の助力《たすけ》をかりずに働かなければならないものには、それほど手固い用意も必用だったであろうが、その場合の祖母の意見は、もうここまで来たという祖父の気のゆるみを、見通していたものと私は考える。
私という人間は、また、そうした祖母の教訓をうけながら、利にうとく、空手でものごとをはじめる、赤ン坊のような勇気? 時折自ら苦笑する、『女人芸術』にしてからが、この祖母の諭《いまし》めを服用していたならば、秋風寒しなんて、しなびはしないであろうに――祖母は十九で自己を建設のために遠く出て来た人、私は時代の激しい潮流に押流された江戸人の、残物の、アブクのようなものをうけて生れて来て、文学をよく知らずに、文学でお金をもらうことを覚えた不覚者、そこの相違である。だが、服用していることもある。
「芝居などにゆくのは三度を一度にして、そのかわりものを惜むな。」
芝居――それより娯楽をしらなかった昔の女は、芝居といったが、それは旅行にも、その他のこともおなじである。これは、当今の、いかに安価に、いかに手軽にというのと、違いすぎる言いかただが、私はいい教えだと思っている。チビチビ、ケチケチ、ならしにしてなまけているのはいけない。自分ばかり愛すと物惜みにもなる。私の母はよく呟《つぶや》いた。
「あのやかましい祖母《おばあ》さんに、十八年も仕えるなんて、なまやさしい辛棒じゃない。」
けれど、また静かに祖母の長い間の教えを思出すと、
「だけれど、あの方にやかましく言われなければ、私なんぞは、それこそなんにも分らなかったろう。」
それはたしかにそうで御座いましょうと私は言う。あの木魚のおじいさん(前出)と、そのおかみさん(前出)の子で、十三、四に、お前浜《まえはま》一帯、お旗本、士族といわず、漁師までびっくりさせた勇敢な汐汲《しおく》み少女(前出)のおたきさんである。むちゃくちゃな勇気と働きは、愛されもしたであろうが、辛棒は、祖母の方が多くしたかもしれない。
祖母のお友達は変っていた。御隠居さんにちょいとお願いがと、やってくるものは、家へくる客とは違って、木綿ものを着て、大層遠慮がちに訪ずれた。だが、
「まあよくお出《いで》だ。」
と祖母が元気よく玄関に現われると、彼女たちは雄弁になって奥へ通る。
あんぽんたんは夜泣きをして、父母の室《へや》から襖《ふすま》の外へ投《ほう》りだされて、寒い室に丸くなって泣寝入りして、祖母に抱いていかれた夜から、ちゃんと心得てしまって、泣いて室外へ投りだされると、蔵の網戸のとこまで、そっと這《は》ってゆくことを覚えた。すこし大きくなってから、夜半《よなか》に祖母におこされて、お灸《きゅう》を毎夜すえてあげる役目をもった。高齢の人には、心のおけないお伽《とぎ》坊主ですこしは慰めにもなったのであろう、何処《どこ》へゆくにもお供《とも》をさせられるのだった。
夕御飯《ゆうごはん》がすむと、お気に入りの松さんの車で、ソロソロと、牢屋《ろうや》の原の弘法大師《こうぼうさま》へ祖母は参詣にゆく。ある時は毎晩のように出かける。あんぽんたんと女中とは、ブラ提灯《ちょうちん》をさげて車のわきを歩いてゆく。送りこむと松さんと女中は帰っていった。
大安楽寺《こうぼうさま》の門前までゆくと、文字焼《もんじやき》やのおばさんと、ほおずきやの媼《おば》さんが声をかける。下足のお爺さんは、待っていたように援《たす》けおろしてくれる。本堂にはお説経の壇が出来て、赤地錦《あかじにしき》のきれが燦爛《さんらん》としている。広い場処に、定連《じょうれん》の人たちがちらほらいて、低い声で読経《どきょう》していた。
祖母は広い廊下を通って、おさい銭|函《ばこ》の横の一角の、参詣人が「お蝋燭《ろうそく》」と階下から怒鳴ると、おーと返事をする坊さんたちの溜《たま》りの方へいった。そこには大きな角火鉢や、大きな鑵子《かんす》があって世話人や、顔の売れた信者の、団欒《だんらん》する場処《ところ》だった。
時々|高野山《ほんざん》から説教師が派出されてきた。その坊さんが若くて、学僧らしい顔付きを
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