西川小りん
長谷川時雨

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)浴衣《ゆかた》を

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)賢人|面《づら》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ときもの[#「ときもの」に傍点]の糸と
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 夏の朝、水をたっぷりつかって、ざぶざぶと浴衣《ゆかた》をあらう気軽さ。十月、秋晴れの日に張りものをする、のんびりした心持は、若さと、健康に恵まれた女ばかりが知る、軽い愉快さである。親しいもののために手軽くつくる炊事の楽しさと共に、男や、貴人《あなたがた》の知らない心地であろう。
 私《あたし》はときものの興味を、今でも多分にもっている。背筋の上から、ずっと下の針止めに鋏《はさみ》を入れておいて、ツーと一筋に糸をぬくのがすきだ。それは空想好きの私のよろこんで引きうけた、娘時代の仕事のひとつであった習慣からでもあろう。ときもの[#「ときもの」に傍点]の糸と共に、つきない空想を、とりとめもなく手《た》ぐりだし楽しんでいたのである。だが、その習慣がまた、ずっと昔の、あんぽんたん時代の家庭行事の一つに、夜ごと養われていたのでもある。
 奥蔵前の、大長火鉢をかこみ、お夜食のすんだ行燈《あんどん》の許《もと》の集りは、八十八で死ぬ日まで祖母が中心だった。ある年は、行燈の影絵を写してよろこんだ私だった。ある年は、小切れをもらってお手玉をつくる小豆《あずき》を、お盆の上で選《よ》っていた。ある年はお手習いしていた。またある年は、燈心を丸めて、紙で包んだ鞠《まり》を、色糸で麻の葉や三升《みます》にかがっていた。ある年は、妹たちときしゃご[#「きしゃご」に傍点]をはじき、ある年はくさ草紙を見ていた。母はつぎものをする時もある、歌舞伎(芝居雑誌、二六通や水魚連《すいぎょれん》という連中から贈ってきた)の似顔絵を見ている事もあるが、かき餅《もち》を焼いたり蕎麦《そば》がきをこしらえてくれたりした。女中たちは雑巾《ぞうきん》をさしたり、自分のじゅばんの筒袖をぬったりした。
 思えば、そういう時に、祖母は修身談をきかせたのであった。だが、それが、どんなに面白かったろう。後にきく種々《さまざま》な修身談は、はじめから偉そうに、吃々《きつきつ》と、味のない、型にはまりきったことをいうのばかりだ。それは、語るものが、自ら教えるという賢人|面《づら》、または博識《ものしり》顔をするからだ。そして、いう事が非凡人のことばかりだからだ。
 ところが、祖母《おばあさん》は面白い凡人なのだ。この祖母、前にも言ったかも知れないが字を知らない。きくところによると無学|文盲《もんもう》とは、落語家《はなしか》などにいわせると馬鹿の代名詞だが、決してそうでないので、ただ、学をまなばず、字に暗しであるので、文盲とは、文字だけに盲目《めくら》であるというのだ。この祖母はまさにそれを証拠だてている。心の眼は甚だ明らかであるのに、文字だけが見えないのだ。気の勝った人だったから、あるいは文字をよく空んじていたら、おそらくあんぽんたんの祖母ではなかったろう。
 だが、この祖母、一|市井人《しせいじん》として、八十八の老婆で死んだのだが、手習師匠へもってゆく、お彼岸の牡丹餅《ぼたもち》をお墓場《はか》へ埋めてしまったのから運命が定まったのだといえば、人間の一生なんて実に変なものだ。とはいえ環境が人をつくるというが、祖母自身も、好学心がなかったのだともいえる。しかし、徳川文明の爛熟《らんじゅく》の結果、でかたん[#「でかたん」に傍点]になった文化の昔、伊勢のお百姓の娘にそれをのぞむのは無理であろう。
 ――大庄家の娘小りんの、美目《みめ》のすぐれていたことも、領主藤堂家に腰元づとめをしていた花の十八、疱痘《ほうそう》になって、許婚《いいなずけ》の男に断わられようとしたのを、自分の方から先手をうって断わったのは幾章か前に書いた。江戸の兄をたよって江戸で暮し、東京で死んだ六十九年、彼女は三十三に私の父を抱いて、通し駕籠《かご》で故郷を訪れたきり二度とゆかない。
 子供を理解しない親――それはこの現代にもざらにありすぎる。男性的《おとこの》気象をもったものにも赤い襟をかけ、島田|髷《まげ》に結わせ、箱入りの人形のように玩器物《おもちゃ》として造りあげようとする一方、白粉《おしろい》をつけて、しなしなしたがるような女性的稟質男子《おんなのようなおとこのこ》を、鉄砲をかつがせたり調練をさせたりして、此子《これ》はなんでも陸軍大将にすると力んでいるのもある。
 小りんさんは男性的だった。手習いがいやなのではなく、寺院《おてら》の夫人《だいこく》さんが、針ばかりもたせようとするのが嫌だったのだ。もっとも、近松《ちかまつ》や西鶴
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