《さいかく》の生ていた時代に遠くなく、もっとも義太夫|節《ぶし》の膾炙《かいしゃ》していた京阪《けいはん》地方である。女子《おなご》に文字を教えると艶文《いろぶみ》ばかり書くと、文字を教えたがらなかったという土地がら、文盲をつくるのに骨を折ったのであろう。
彼女はお寺の墓地で、竹の棒をもって男童《おとこわらべ》たちと遊びくらした。お彼岸の蒔絵《まきえ》の重箱の中にはお寺さんへもってゆくお萩餅《はぎ》が沢山はいっている。寺の門近くくると、重箱をもって来た下男を帰してしまって、遊び友達の一日の食料をもっている事に満足した。犬蓼《いぬたで》の赤い花の上に座ってお萩をたべる子供たちの、にこやかな頭の上には高い空があった。文化の昔の女団長の頭の、やっと結わえた蝶々髷《ちょうちょうまげ》には、赤トンボがとまっている。
「もっと食べよ。」
「もうこんなにお腹《なか》大きくなってしまった。」
あぶらやさんをかけた男の子が胸をのしてみせる。あんこのついた指をしゃぶるものもある。鼻の頭へ黄豆粉《きなこ》をつけているものもある。上唇についた黒ごまと鼻汁《はな》とを一緒になめているものもある。
そこで困った事は、残ったお萩の始末で、食べ残しをお寺へもってゆけない。
「投げちゃえばいい。有難うございましたって、からっぽにしてゆけばいい。」
小りんさんはそうしなかった。穴を掘って重箱ごと捨ててしまった。
家《うち》へかえって訊《き》かれると、「捨てたよ」とはっきり自分でした通りをいった。家のものがいって見ると、黒ぬり蒔絵《まきえ》の重箱が、残ったお萩のはいったまま土中にあったので、かえって本当だったのに呆《あき》れた。
女らしくないといって、糺命《きゅうめい》のため味噌蔵《みそぐら》にいれられた小りんちゃんは、大人たちの不当な仕置きに腹を立てた。あやまることなんぞ考えもしなかった。自分のしたことのいいかわるいかは子供だから知らないが、つねづね親たち師匠から、人間は正直が第一だ、ことに神宮《おおかみ》の御鎮座ある伊勢は「伊勢子正直《いせこしょうじき》」と名のあるのを誇りにしているといましめるのに、なぜ正直に言ったことが悪い――それが不足だった。
彼女は、自分をこんなに困らせる家人《おとな》を、自分も困らしてやろうとばかり考えた。暗い陽《ひ》の遠い味噌蔵に這《はい》っている、青大将も怖《こわ》くなければ、いたずらに出てくる鼠《ねずみ》にも馴《な》れた。
仕かえしは味噌|樽《だる》の中へときまった。彼女は自家用の幾個《いくつ》かの樽のなかへおしっこ[#「おしっこ」に傍点]が出たくなると、穴をあけておいてした。味噌を掻廻《かきまわ》しておいて知らん顔をして、それからおわびをして蔵から出してもらった。
おや? この樽の味噌は――あら? この樽のも――
やがて、日がたってから、家のものが変な顔をして、味噌汁を吸うのを、彼女は小躍《こおど》りしてよろこんだ。
「私のしっこを飲んでいる――」
大人たちは、はじめは何をいっているのかとりあわなかったが、彼女があんまり伊勢子は正直だ、伊勢子は正直だ、私のしっこを飲んでいる――と小躍りするので、やっと彼女の悪戯《いたずら》が、味噌をだいなしにしてしまったのだと感じた。
この祖母《おばあさん》、江戸へ来て嫁入って、すぐ大火事にあって、救米のおむすびをもらった時、傍《そば》にいた者がお腹がすきすぎて、とうてい一個《ひとつ》の握飯《おむすび》では辛棒がなりかねるとなげくと、さっそくに抱えていた風呂敷包に手拭をかむせ、袖の下に寝させたかたちにして、
「お役人様、ここにも一人おります。」
と、まんまと一人分握飯をせしめた。花婿だった祖父《おじいさん》びっくりして、
「お前はおそろしい女だ」
と嘆息したそうだ。昔の町人の考えでは、大胆でも、機智があっても、女らしくない女としたものと見える。メソメソ、グズグズ、ブツブツ、ウジウジしているのが女らしい女としたのであろう。女の人のすべてが低下したのは(祖父をわるくいってはすまないが)、こういう男に、扶養されなければならない位置に長く長くおかれたからであろう。そしてそういう善人といっていいか、グズ男といっていいか、ともかくそんな男どもの好みにあった女をつくり、その女が、そういう男の子を生んできたのだと思うと、家《うち》の子はどうしてこう低能なんだ、なぞと、学校の試験や親の思う通りにならなかった場合に、そんな勝手なことはいえないはずだ。
祖母《おばあさん》、ある日、
「古道具屋で御櫃《おはち》を決して買ってはいけない。」
と変な教訓を垂れた。聴いていた壮士荻野六郎が、赤黒い、ズングリ肥《ふと》った腕を撫《なで》上げながらへえと腑《ふ》におちない声で返事をした。
「飯櫃《めし
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