へ丸めた束髪で、白っぽい風通《ふうつう》か小紋ちりめんを着て、黒い帯をしめ、金歯が光っていた。斯波《しば》さんの御新造《ごしんぞ》といって、浅草蔵前の方にいたから、もしかすると民政党の斯波氏のおうちの方だったかもしれない。この女《ひと》が家元の格をもっていたようだった。
 日本橋伊勢町の方に芦洲さんは住んでいた。肥《ふと》った黒い、立派な押出しのおかみさんだった。大きい、勢いのいい店の内儀だったのだろうと思う。いま、東流二絃琴の正統な弾手として奮闘しているのは、この人のお弟子さんたちにちがいない。ごく若い娘さんたちで、名取になっていた人のあったことを思いだす。この派の弾き手なら、直門の正しい手法といえるだろう。ただ、私の子供の耳にも、やや余情のない、勢いのいい、ハッキリした芸風と思えた。
 二絃琴は歌が――節がむずかしい。私はそんなふうにおぼえた。芦寿賀さんは節がやかましかった。曲をおぼえればそれでいいとしなかった。尤《もっと》も、それは、きん坊とあんぽんたんだけで、あとの人は普通《なみ》に、器楽の方を主にして教えはしたが、二人の子供は歌の方が三日、琴《きん》の方は一日で自分から弾けて
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