が参酌されたものと思われる。九代目市川団十郎が『忠臣蔵』の大石|内蔵之助《くらのすけ》で、山科《やましな》の別れに「冬の恵《めぐみ》」を奏《かな》で、また四国旅行の旅土産《たびづと》に、「三津の眺め」の唱歌をつくったので、一層評判になった。宣伝にも抜目はなかったのであろうが、通人《つうじん》である芦船は、求めずしてその道の人たちとも社交《まじわり》があったので、むしろ団十郎の方が、新しい思いつきとして、または自分の好きな道を舞台にとりいれたのかもしれない。片岡仁左衛門も大石をすると二絃琴を弾いたが、調子がととのわないのが耳についた団十郎もしきりに調子を直し直し、芝居が楽になったそうである。
 二絃琴の調子は、糸がたった二筋《にほん》だから単純でいて、そのくせ複雑だ。一体二絃琴の響は一間《ひとま》へだてた方が丸味をおびてよいものだが、しかし、それは弾手の耳と、趣味の深さ浅さによるは論をまたない。もともと小楽器で、小曲的なものに適しているのを、大きな合奏曲の真似までしようとしたところにほころびがある。最初《はじめ》のうちの作曲や歌詞は、それをよく知ってつくられているが、段々大物にしようとし
前へ 次へ
全18ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング