は、三多摩の壮士が竹|鎗《やり》で、何百人押寄せてくるのなんのと、殺伐な空気であったと見える。政談演説会や討論会もよく開かれた。ある折両国の福本という講談席亭で、講談師なのか壮士なのか、あるいは弁士なのか、またはそれらの交りなのかそこの処は記憶が誠にはっきりしていないが、擬国会みたいなものが催うされたらしい。例によって私は父に連れられていった。自由党の人たちが多く来ていたのであろう。あれは中島だよとか、あれは誰だよとか種《いろ》んな名をきいたが覚えてはいなかった。ただ、父と論じあったので板倉中《いたくらちゅう》という人の、赤ら顔の、小肥《こぶと》りの顎髭《あごひげ》のある顔と、ずんずら短い姿と名を覚えている。この時も、正面の桟敷《さじき》にいたが、大きな声をするので私は閉口していた。それに、どこでも呶鳴るので溜息が出た。
父は刀が好きだった。暇があると拭《ぬぐ》いをかけたり粉《こな》を打ったりして、いつまでもあきずに眺めていた。磨《とぎ》に出したりするのも好きだった。燈火の下でやる時もあるが、昼間でも静《しずか》なときには一室を締めきってとじこもっていた。そんな時、母は大きらいで自分
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