なかった。車馬の轟《とどろ》きはめったに聞こえず、人が尋ねてくるではなし、昼間家の中を青蛙《あおがえる》が飛んでいるし、道ばたの小家に簾《すだれ》を釣って、朝、夜明から戸をあけて蚊帳《かや》は釣りっぱなしで寝ていると、まだほの暗い中を人声がして前の川で顔を洗っている。
「おばあさん、あれはなに?」
ときくと、あの顔の大きなおばあさんは、あたしが大人のような返事をして、
「吉原《よしわら》がえりだろうよ、朝がえりだね、ふられて帰る果報者ってね。」
「降られてはいやしないよ、お天気だよ。」
とアンポンタンとちゃんぽんな問答をする。そうかと思うと、
「入谷《いりや》へ朝顔を見にゆこうかね、それは美事《みごと》だよ。」
「田圃《たんぼ》へ蓮《はす》の咲くのを見に行こうよう、おばあさん。ポンポンて音がするってね?」
「この子はまあ、田圃が好きで、お百姓のお嫁さんにしなければなるまいかねえ。」
 あたしは顔も洗わずに、湿った土の上へ一足、片折戸を開けて飛出すと、向うの大百姓の家のお嫁さんが生姜《しょうが》を堰《せき》でせっせと洗っていた。名物の谷中《やなか》生姜は葉が青く生々していて、黒い土がおと
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