そんな事は日本橋油町|辺《あた》りの子供の誰一人知ってはいなかった。
 田圃道を歩きながら、おばあさんは錦絵《にしきえ》のような話をはじめる。
「根岸にはお大名の別荘《しもやしき》が沢山あるけれど、加賀様のお姫さまがたは揃ってお美しかった。お前さん、桜《はな》の咲くころに、お三方《さんかた》もお四方《よかた》も揃ってお出《いで》になると、まるで田舎源氏の挿絵のようさね。」
「おばあさん、お姫様はピラピラをさげてる?」
「お袿《かけ》は召ていないが、お振袖で、曙染《あけぼのぞめ》で、それはそれは奇麗ですよ、お前さんに見せたいね。ほんと! 桜の花よりものいう花がきれいさ。」
 あたしにはまたちょいとこの会話《はなし》が分らなくなる。牛乳《ちち》を呑《の》ましてくれる家《うち》の門《かど》に来た。
「ここらはもう三河島《みかわしま》田圃。」
とおばあさんがいったから、三河島の方へ寄っていたのであろう。一構《ひとかまえ》の百姓家は牧場になっていた。牛の牧場なんてそれまで見た事もない私だった。優しい眼をした黄と白の斑牛《まだらうし》が寝そべっていて、可愛い仔牛《こうし》がいたが、生きた牛の添《そ
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