の旅宿には、湿っぽい場面が行燈《あんどん》のかげに示しだされた。それは木魚のおじいさんが幼少のころ出奔《しゅっぽん》した、母親がたずねて来たのだった。成長した子供の前へ、恥もわすれて逢いに来た母親は、十二、三の女の子を連れていた。
「それは不義の子である、拙者に縁はない。」
 大体の侍ならそういうであろうを、おろおろ泣いている母親と義妹とを見ると、捨てられた当時を思いだして、自分も泣いた子供心にかえって咎《とが》めなかった。
 江戸入りは三人になったが、厳しい藩邸《やしき》の門はさすがにくぐらせられない。出入りの町家《ちょうか》に預けておくうちに母親は鳶頭《かしら》のところへ娘を連れて再縁した。そこに年頃のあんまり違わない娘があったので、連子は妹とよばれ、おなじように稽古《けいこ》ごとも習わされるようになった。
 この二人娘が姉は踊りで、妹は三味線で売り出して、諸大名のひいきも多くなった。両親は左|団扇《うちわ》のホクホクだったのである。その妹娘の勝川花菊が、アンポンタンが長茄子と見た勝川のおばさんの前身だったのだ。
 人気渡世の、盛りの花菊を、無理にも手生《てい》けにと所望し、金にあ
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