何時になく機嫌よくニヤニヤするのでよけい気味が悪かった。
 と、祖母が言った。
「おたき、眉毛が立って狸《たぬき》のように見えてじじむさい、それだけは剃ったがよい。」
 母は嬉しくなさそうな返事をしたが、私はやっぱりお母さんだったのだと思った。急に黒襟《えり》のない着物を着たのと、髪の違ったのがなおさら人柄を違えて見せたのだった。
 私たちはその頃輸入されたばかりの毛糸で編んだ洋服を着せられ靴をはかせられた。二階に絨緞《じゅうたん》が敷かれ洋館になった。お母さんが珍しく外出すると思ったら月琴《げっきん》を習いにゆくのだった。譜本をだして父に説明していた、父は月琴をとって器用に弾いた。子供のおり富本《とみもと》を習った母よりも長唄《ながうた》をしこんでもらっている私たちの方がすぐに覚えて、九連環なぞという小曲は、譜で弾けた。チンチリチンテン、チリリンチンテンと響くこの真《ま》ん丸い楽器がひどく面白かったが、練習《おそわり》にゆくところが勝川のおばさんであろうとは随分長くしらなかった。
 私の家の外面的新時代風習はすぐ幕になってしまって、前よりも一層反動化したが、世間では清楽《しんがく》の流行はたいした勢いだった、月明に月琴を鳴らして通る――後にはホウカイ屋というのも出来たが――真面目で、伊太利《イタリー》の月に流すヴィオリンか、あるいは当時ハイカラな夫人がマンドリンを抱えているような、異国情緒を味わおうとしたのだった。
 私の家で、急激な母の変り方が、すぐまた前にもどったのに面白い些細《ささい》な訳があった。それは私たちをとても可愛がった酒屋が、利久そばやの前側にあって、隣家《となり》の家一軒買って通りぬけの広い納屋にした空地があるので、いい私たちの遊び場だった。二月の末になると赤い布をかけた白酒の樽《たる》が並べてあるのをかき廻しても叱りもしなかった。その酒屋の一人娘がワーワー泣いて阿父《おやじ》さんに叱られていたが、小さなアンポンタンの胸は、父娘《おやこ》のあらそいを聞いてドキンとした。
「そんな事をいったってお父さん、長谷川さんの御新造《ごしんぞ》さんだって、束髪に結って、細《こま》っかい珠《たま》のついた網をかけている。あんなやかましいおばあさんがいたってさせるのに、家でさせてくれないなんて――嘘《うそ》だというならいってごらん本当《ほん》だから! 買っとくれったら買っとくれ、月琴も一緒に!」
 酒屋の娘だからでもないだろうが、お桝《ます》さんというその独り娘は、島田をゴロゴロさせて泣き喚《わめ》いた。
 阿父《おやじ》さんは、十《とお》にならない私には、新聞紙の一頁を二つに折ったほどの大きさの顔に見えた四角い人だった。胸毛も生えて、眉毛がねじれ上っていた。節瘤《ふしこぶ》だった両手両脚を出して、角力《すもう》の廻しのような、さしっこ[#「さしっこ」に傍点]でこしらえた前掛をかけて、白い眼だった。私は日本武尊《やまとたけるのみこと》の熊夷《くまそ》を思うとき、その酒屋の阿父を思出していたほどだった。塩鮭《しゃけ》は骨だけ別に焼いてかじった。干物は頭からみんな噛《かじ》ってしまうし、いなごや蝸牛《まいまいつぶろ》を食べるのを教えたのもこの人だ。それが怒鳴った。
「おれの家《うち》では買わせねえ、商業《しょうべえ》が違うのをしらねえか、どうしても頭に網をかぶせたきゃあ、そこにある餅網《もちあみ》でもかぶれ。」
 泣いていた娘と、青ぶくれな、お玉じゃくしのような顔の母親とは、キョトンとして、天井から釣るさがっている、かき餅のはいった餅網をながめたが、娘は一層狂暴に泣出した。母親は困って小さな私に救いを求める笑《えみ》を送った。
 私は駈《か》けてかえって祖母《おばあ》さんに訴えた。祖母さんはだまって白い台紙に張りつけた、さんご珠《じゅ》まがいの細かい珠《たま》のついた網を求めさせてくれた。お桝さんは満足だったが、宅の母の方が、それきり束髪を止《や》めさせられた。私の心の中で、母には似合わないと思っていたから、よしたので安心した。

 勝川のおばさんが日本橋区へ進出して来たのはそれから二、三年たってからだった。新道つづきの中《なか》一町をへだてた、私の通った小学校のあった町内の入口近かった。一間半ばかりの出窓をもった格子戸づくりの仕舞《しも》た家《や》で、流行《はやり》ものを教えるには都合のよい見附きだった。夏は窓に簾《すだれ》をかけ、洋燈《ランプ》をつけ、若い男女が集まって月琴や八雲琴をならっていた。窓には人だかりがしていた。近くなったので勝川おばさんは涼みながら来ては、蛇三味線《じゃみせん》を入れるの、明笛《みんてき》も入れるのと話していた。彼女には、漸《ようや》く昔の賑やかな生活の色彩に、調子はかわっていても、帰ってゆくの
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