が嬉しかったのであろう。
 だが、そのうちに日清国交破裂となった。清楽なんぞやる奴《やつ》は国賊だとなった。勝川の窓は宵から締めないと石が降り込んだ。で、いつの間にか窓が閉って家の中の人も逐天《ちくてん》してしまった。
 それから幾年、また勝川おばさんの所在不明。
 大本教《おおもときょう》が盛りだした時以上に天理教流行の時があった。一体下町で、いつも景気のよい宗旨は日蓮宗だが、時々新らしい迷信が捲起《まきおこ》ることがある。ある時、葛籠屋《つづらや》の店蔵に荒莚《あらむしろ》を敷いた段をつくって、段上に丸鏡と榊《さかき》と燈明をおき神縄《しめ》を張り、白衣の男が無中になって怒鳴っていた。それを取りまいた一群が、トウカミエミカミ、トウカミエミカミというふうに喚《わ》めいていた、×××教というので堀越三升《ほりこしさんしょう》でさえ――九代目団十郎――権少都《ごんのしょうづ》の位になって信心してるのだからたいしたものでさという勢いだった。そのあとで狐狗狸《こっくり》さんが来た。これはむやみと景気がよくて大衆的大人気で、いたるところ向う鉢巻三味線入りで、車座になって、お飯櫃《はち》のふたをかぶせた三本足の竹の棒に神の来向を信じ、そら、足をあげた、ハイとおっしゃったとはしゃいだ。そのあとが天理教だった。
 天理教も大本教とおなじく、中山おみきさんという中国辺田舎のおばあさんが教主で、神田|美土代町《みとしろちょう》に立派に殿堂をしゃにかまえてしまった。これは信者の婦人が楽器《なりもの》入《い》りで、白装束《しろしょうぞく》、緋《ひ》の袴《はかま》、下げ髪で踊るのだった。なにしろ物見高い土地だから人だかりはすぐする。
 勝川おばさんが隠れてから十年もたったある日、大丸の向側の家で天理教の踊りがあった。私の下の方の妹たちが通りかかりに覗《のぞ》いて見たら、広い店中祭壇にして、片側に楽人がならび、明笛《みんてき》だの、和琴《わごん》だの交って、その中には湯川一族の、鉱山から逃出して帰って来た連中たちの顔が見えた。もっとよく見ていると、緋の袴で踊る少女が、あの戸板店《といたみせ》のおせんべ屋夫婦の二女だったので、母に聞えては悪いもののように、帰ってきてからそっと私にだけきかせた。
「そうっといって御覧なさい。今ならまだやってる。」
 だが、あたしには見にゆけなかった。言わなくても母たちは、勝川へ藤木の二女《むすめ》がずっといっているという事はしっていたのだった。
 さすがの花菊も、もうたいへんすたれ果てた年となっていたであろうが、お角力《すもう》は影の形体《かたち》を離れぬように、いつもぴったりと附いていた。御直参《おじきさん》ならずものたちは口が悪いから、宅などへくると、
「お角力はやっぱりいるさ。」
といって、
「あの角力も妙な男だよ。立派な図体《ずうたい》をして、なんでまあああしているのかねえ。まるで権助同様なあつかいで、あのおばさんのことだから、ポンポン言ってらあね。」
「商業でもしてるのかね。」
「どうしまして、台所やせんたくがなかなか忙しいのに、あれで道具運びの荷ごしらえに手がかかりますさ、力があるからお誂《あつら》えむきだが。」
「あの男だって相当な番附位置《ところ》にまではゆけたろうにな。」
「色の白い、体の奇麗な角力取りだったが、何も石川屋が没落したからって、自分も角力を没落しなくったってよさそうなもんだったのに。」
 だが、勝川お蝶さんの一生には、なくてならない人はこのお角力だったのだ。傍《はた》のものは道具はこびにお誂えむきだといったが、お角力にはピッタリはまった役目があったのだ。彼は勇敢に若き日の一生をかけて、その力を、自分の愛するもののためにとっておいたのだともいえる。そしてその最後の日が来た。
 天理教の踊りがピッタリ逼塞《ひっそく》してしまうと、勝川おばさんの逼塞も本ものになって、手も足も出なくなってしまった。むかし、大川の河風にふかれて船の上で昼寝をした夢をしのびながら、陋居《ろうきょ》に、お角力の膝《ひざ》を枕《まくら》にして、やさしく撫《な》でられながら彼女の生涯は終った。
 あたしの母も、母の姉のお房さんも行った。夜更けて帰って来て、なにしろ家がせまいから、明朝《あした》また早くゆくといってくつろいでいた。その翌日いったらもう死者は家にいなかった。落魄《らくはく》御直参連一党がつらなって帰って来てつぶやいた。
「今度こそ角力が入用な人間だったってことがわかったよ、おばさんの役にたった一番目で、それがおしまいだ。」
「だが秀逸だ、あの男の。」
 父が出てゆくとみんな頭を揃えてさげて、
「ありがとうございました。取りかたづけはすみました、角力がひとりで、しょってしまいました。」
「そうか、あの男でも、それだ
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