かして大家《たいけ》の御内儀《ごないぎ》としたのが廻船問屋石川佐兵衛だった。
中沢氏が湯川氏となって、遠州お前崎から働きものの二女を連れてくると、一躍して位置のかわってしまった金持の御内儀花菊さんは、働きものらしい娘を、手許《てもと》で召使ってやろうと言出した。湯川老人もその店で仕事をもつようになったので、彼にいわせればなんとも致しかたがなかったのだ。私の母は彼女づきの小間使いに任命された。
大根おろしのように、身を粉にして動くことを、無益《むだ》も利益もなく、めちゃめちゃに好んだ壮健至極な娘でさえ、ばかばかしいと思ったほど酷《こ》き使った。行処《ゆきどころ》のない身寄りだから逃げてゆかないという信状で、驕慢《きょうまん》の頂上にいた花菊は無理我慢の出来るたけをしいた。無論他の者へも特別優しかったわけではない。
彼女が芝居見物の日は、前の晩から家中の奥のものは徹宵《てっしょう》する。暁方《あけがた》に髪を結ってお風呂にはいる。髪結は前夜から泊りきりで、二人の女中が後から燈をもっている。他の女中は蒔絵《まきえ》の重箱へ詰めるあれこれの料理にてんてこ舞をするのだった。早くから船は来て(浅草|猿若町《さるわかちょう》にあった三座の芝居へは多く屋根船《ふね》か、駕籠《かご》でいったものである)、炬燵《こたつ》を入れ、縮緬《ちりめん》の大座布団を、御隠居さんの分、隠居さんの分、御新造さんの分と三枚運ぶ。御隠居さんと御《ご》の字のつくのが石川氏の母親のことで、御の字のつかない方のが娘のために引きとられて楽隠居をしていた、湯川老人を捨てたお母さんであった。二人とも向う河岸の、中洲よりの浜町に隠居しているのを誘って乗せてゆくのだった。この女《ひと》たちも花菊夫人におとらぬ気随《きまま》な生活であったであろうが、頭の方は坊主だったから芝居行きに泣き喚《わめ》きはないから無事だが、母屋《おもや》の内儀の方はそうはゆかない。合せ鏡に気に入らない個所でも後の方に見出すと、すぐ破《こわ》して結い直しである。それも髪結いさんが帰ったとなると、撫《な》でつけがうまいので髪のことだけは気にいっているお手許使いの姪《めい》のおたきがよばれるが、もともと機嫌を損じているのだから泣かされるまで幾度も結い直させられる。そうなると芝居なんぞは何時からでもよいとなる。お風呂ははいり直しである。昨夜《ゆうべ》から寝ないものもキョトンとしてそのままで手をつかねている。沖では船頭が寒がっている。二人の比丘尼《びくに》隠居のところからはせっせと使いがくる。
夏の日は大川の船の中で昼寝をするのがならわしだった。髪を洗ってから、ちりめん浴衣で、桟橋につけさせてある屋根船《ふね》へ乗る。横になりながら髪を煽《あお》がせるのだ。そうした大名にも出来ない気ままが、家のうちに充満して、彼女の笥《くしげ》には何百両の鼈甲《べっこう》が寝せられ、香料の麝香《じゃこう》には金幾両が投じられるかわからなかった。現今《いま》の金に算して幾両の金数《きんす》は安く見えはするが、百文あれば蕎麦《そば》が食えて洗湯《ゆ》にはいれて吉原《なか》へゆけたという。競《くら》べものでないほど今日より金の高かった時代である。
とうとう三菱が起り、三井が根をなし、旧時代の廻米《かいまい》問屋石川屋に瓦解《がかい》の時が来た。
残りの有金《ありがね》で昔のゆめを追っているうちに、時世《じせい》はぐんぐんかわり、廻り燈籠《どうろう》のように世の中は走った。人間自然|淘汰《とうた》で佐兵衛さんも物故した。そのあとの挨拶に来たのが、私に印象させた長茄子のおばさんだったのだ。
ある時、急に社会が外面的に欧化心酔した。それは明治十八年頃のいわゆる鹿鳴館《ろくめいかん》時代で、晩年にはあんなゴチゴチの国粋論者、山県元帥《やまがたげんすい》でさえ徹宵ダンスをしたり、鎗踊《やりおど》りをしたという、酒池肉林《しゅちにくりん》、狂舞の時期があった。吉原|大籬《おおまがき》の遊女もボンネットをかぶり、十八世紀風のひだの多い洋服を着て椅子に凭《よ》りかかって張店《はりみせ》をしたのを、見に連れてゆかれたのを、私はかすかに覚えている。わが日本橋区の問屋町は、旧慣墨守《きゅうかんぼくしゅ》、因循姑息《いんじゅんこそく》の土地だけに二、三年後にジワジワと水の浸みるようにはいって来た。でも私はびっくらした事がある。ある日、家へ帰ってくると、知らない顔のお母さんがいる。それが毎日の通り、ちっともちがわないお母さんらしい事をしてくれるが顔がどうも違うのだった。なぜなら母の顔は眉毛《まゆげ》がなくって薄青く光っていた。歯は綺麗に真黒だった。それなのに、目の前に見る母はボヤボヤと生え揃わない眉毛があって、歯が白くて気味が悪かった。彼女はまた
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