、いやなこと、真っ平さね。」
プツリと言いきって、狐《きつね》つきのようにだまり込んでいる。背を丸く首を傾《かし》げた姿を見るとどんなに世の荒波がこの善人を顛動《てんどう》させ、こうも呆《ぼ》けさせたかと痛ましかった。
私はこの老女《ひと》の生母《ははおや》をたった一度見た覚えがある。谷中《やなか》御隠殿《ごいんでん》の棗《なつめ》の木のある家で、蓮池《はすいけ》のある庭にむかった室《へや》で、お比丘尼《びくに》だった。
老年になってからこの夫妻は一緒に暮す日が多くなった。
ある日|空巣《あきす》ねらいがはいった。おばあさんはキョトンとした眼で見ていたが、立っていって座布団《ざぶとん》を出した。盗棒《どろぼう》はびっくりして、落つかないお尻《しり》を布団の上にのせたが、お茶を出されてモジモジした。
「あいにく留守にしたあとで、私《あたくし》では何のお役にもたちませんで――どうぞ、ごゆるりとなさって下さいまし。」
盗人《どろぼう》は飛上って次の間へゆき、グルリと見廻して出て来た。
おばあさんはいよいよ真面目で、
「ただいまお菓子をとって参りますから、ちょっとどうぞお待ちを――」
盗人は狼狽《あわ》てた。外へ出られてはたまらない――彼の方が一目散《いちもくさん》に飛出すと、おばあさんが後から、
「もしもし貴下《あなた》、おわすれものですよ、なんておそそうな――」
そう言って着せてやったのは、毛皮のついた外套《がいとう》だった。
湯川氏が帰るとこの老妻は、盗人を笑った。
「なんてまあ、狼狽《あわて》たお客さんなのか。ねえおじいさん。」
「その人は何の用で、何処《どこ》から来た?」
「それを私《あたくし》が知りますものかね。老父《おじい》さんが御存じじゃありませんか。」
「私《わたし》がなんで知るものかね。」
「へえ? それは不思議だ。私《あたくし》はまた、貴夫《あなた》のお客さまだから、あなたが御存じだと思いましたよ。」
老人は壁を見ていった。
「私《わし》の外套《がいとう》がないよ。」
「おやまあ嫌だ、あなたが着てお出《いで》になったのに――おじいさん老耄《ろうもう》なさった。」
「ばか言え、わしは着てゆかない。」
ふと老父さんは、老妻が丁寧にお辞儀をしている頭のさきを、盗人《どろぼう》が、自分の外套をきて出てゆくのを思いうかべた。そして淋《さび
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