木魚の配偶
長谷川時雨

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)木魚《もくぎょ》の

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)湯川|氏《うじ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+息」、159−10]吸
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 木魚《もくぎょ》の顔の老爺《おじい》さんが、あの額の上に丁字髷《ちょんまげ》をのせて、短い体に黒ちりめんの羽織を着て、大小をさしていた姿も滑稽《こっけい》であったろうが、そういうまた老妻《おばあ》さんも美事な出来栄《できばえ》の人物《ひと》だった。顔は浜口首相より広く大きな面積をもち、身丈《みのたけ》も偉大だった。
 うどの大木という譬《たとえ》はあるが、若いころは知らず、この女《ひと》はとても味のある、ずば抜けたばかげ[#「ばかげ」に傍点]さを持った無類の好人物だった。
 湯川|氏《うじ》が硫黄にこりだして、山谷《さんや》を宿とし、幾年か帰らなくなってから、老妻《おばあ》さんはハタと生活にさしせまった。江戸人は瓦解《がかい》と一口にいうが、その折|悲惨《みじめ》だったのは、重に士族とそれに属した有閑階級で、町人――商人や職人はさほどの打撃はなかった。扶持《ふち》に離れた士族は目なし鳥だった。狡《こす》いものには賺《だま》され、家禄放還金の公債も捲《ま》きあげられ、家財を売り食《ぐい》したり、娘を売ったり、鎗《やり》一筋の主が白昼大道に筵《むしろ》を敷いて、その鎗や刀を売ってその日の糧《かて》にかえた。
 木魚のおじいさんの奥方も、考えたはてに、戸板《といた》をもってきて、その上でおせんべを焼いて売りだした。一文のお客にも、
「まあまあ私《あたくし》のをお求め下さいますのですか。それは誠に有難いことでございます。」
という調子で、丁寧に手をついてお礼をいうのと、深切《しんせつ》な焼きかたなので一人では手が廻りきれないほど売れだした。
 あまり皺《しわ》のない、大きな顔に不似合なほど謙遜《けんそん》した、黒子《ほくろ》のような眼で焼き方を吟味し、ものものしい襷《たすき》がけの、戸板の上の、道ばたのおせんべやの、無愛想なのも愛嬌《あいきょう》になったのかも知れない。すると、おなじ難渋《なんじゅう》をして
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