いた姉娘が一日手伝いに来て見ていて、翌日からすぐ隣りあって、おなじ戸板の店を出した。もうその時は、はじめの縁に、遠州で仲人になった旗本――藤木|前《さき》の朝散《ちょうさん》の太夫《だいぶ》の子か孫かが婿で、その若い二人組だった。お客がくると、湯川氏の奥方がお辞儀《じぎ》をしているうちに、
「いらっしゃい、こちらが焼けていますよ。」
といったふうに浚《さら》ってゆく。客は売れるから焼手をふやしたおなじ店だと思っている。老奥方《おばあさん》のお辞儀は段々ふえて、売れ高はグングン減ってゆくが、そんな事に頓着《とんじゃく》のない老媼《おばあさん》は隣店《となり》の売行きを感嘆して眺め、ホクホクしていう。
「お前さん方、もっと此方へお出なすったらよい。どうも私《あたくし》の店がお邪魔なようだ。」
 全くお邪魔だといわれたかどうか、とにかく元祖戸板せんべいの店は取りかたづけられた。

 真面目《まじめ》な会話《はなし》をしている時に、子供心にも、狐《きつね》につままれたのではないかと、ふと、老媼《おばあ》さんを呆《あき》れて見詰めることがあった。
「祖父《おじい》さんも何時《いつ》帰りますことかねえ。」
 そこまでがほんとの話で、突然《いきなり》、まつは愁《つら》いとみな仰《おし》ゃんすけれどもなア――とケロケロと唄《うた》いだすのだった。そして小首を傾《かし》げて、
「あれはたしか、長唄《ながうた》の汐《しお》くみでしたっけかねえ。あの踊りはいいねえ、――相逢傘《あいあいがさ》の末かけて……」
と唄いながら無器用な大きな手を振りだす。私《あたし》が吃驚《びっくり》していると、その手でひとつ、招き猫のような格好をしておいて、鼻の下へもっていって差恥《はにか》んだように首を縮めて笑う。
 布子《ぬのこ》の下の襦袢《じゅばん》から、ポチリと色|褪《さ》めた赤いものが見えるので、引っぱりだして見ると、黒ちりめんに牡丹《ぼたん》の模様の古いのだった。綴《は》ぎ綴《は》ぎで、大きな二寸もある紋があった。
 おばあさんの父親|安芸守《あきのかみ》は、白河で切腹したとき、上野の法親王にはお咎《とが》めのないようにと建白書のようなものを書いたのだときいていたが、おばあさんに正すと、遠い昔の物語りでも聞くように目を細めて、そうですよそうですよというきりだった。
「戦争なんて、もうもういやなこと
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