だ。彼女が今でも一番恋しい景色は遠州御前崎の今切《いまぎ》れの渡しのところと味方が原だという。彼女は早抹《あさまだき》、父親をはげまして自ら小船を漕いで塩浜へとゆく。十二の彼女の海水《しお》の撒《ま》きぶりには及ぶものがなかったほど、終日を働きくらした。
と姉娘に縁談が起った。親たちは江戸がえりの娘の美しさゆえに――と思った善人である、先方が旗本で、旗本が口をきいてくれたのだからといった具合で悦《よろこ》んだ。仲人《なこうど》が来た。夏のことで白扇《はくせん》をサラリと開くと懐《ふところ》から贈物の目録《もくろく》書と、水引《みずひき》をかけた封金を出して乗せたが、
「芽出度《めでたく》御受納くださるように。」
と丁重に述べておいて、下げた頭をあげると、動作のゆっくりした湯川氏が手をださぬうちに扇の要《かなめ》をくるりと向けかえて、
「御同様に、此方様《こなたさま》からも御贈《おおく》りでござろうから、諸事節約、緊縮《きんしゅく》して――」
とかなんとか浜口内閣のようなことを言って、もってきた結納金《ゆいのうきん》をまた懐中に入れてしまった。それでも好人物な、他人《ひと》を疑うことをしない夫婦は、悦びだけを受入れ、悦びの意だけを空っぽで渡した。
――あたしの母は、今でも言う、姉さんが味方が原の秋草の中を、馬に乗って美しい振袖を着ていった。これはお前にやるよといったものまでみんなもっていってしまった。お嫁にゆくとなったらケチになって、何もかも持っていった。姉さんが御奉公に出たころは、家も富貴だったので、市ヶ谷のあまざけや(有名な呉服店)で、好《この》みで染めさせたものばかりだったが、私は子供心にもこの嫁入りの仲人が変だと思った。昔のお金は小判で重いのに、包んできた水引のかかった奉書は薄っぺらで軽かった。よっぽどたって嫁入りさきにたずねていったら、連合《つれあ》いも、姑も、姉も、みんながあたしの姉さんの着物を着ていた。
無力の巧《たく》んだ一種の略奪であった。さすがの御直参湯川氏も考えさせられた。これではならないと働きものの二女を伴《つ》れて江戸へ出た。江戸には住みすてた邸《やしき》もある。池の中には何かしらが残っていよう。深川佐賀町の廻船問屋には自分の妹が片附いている。商人には障《さわ》りがなかったということが彼を心強くさせもした。
紅葉《もみじ》を踏んで箱根の山も越した。以前の住家《すみか》へゆくと玄関の両側にたてた提灯の定紋《じょうもん》は古びきって以前のままだが、上方の藩の侍が住んでいて、取次の男が眼をむいて睨《にら》んだ。家財なぞしらんと――だが深川の商取引の活溌《かっぱつ》さは昔どころではなく、溌溂《はつらつ》として大きな機運が動いていた。義弟の佐賀町の廻船問屋石川佐兵衛の店では、仙台藩時代の彼の緻密《ちみつ》な数算ぶりを知っていたので手を開いてむかえた。働きものの小娘は気むずかしい伯母《おば》の小間使《こまづか》いになった。
だが、人間をあやつる傀儡師《かいらいし》はなんといういたずらをしようとするのか、この湯川氏が、働きものの二女を芸妓に売ろうと思ったり、また、この小娘が未来に教育界の先駈者《せんくしゃ》となろうとしたのをさせなかったり――彼女に手習いを教えた女学者が、この子を養って自分の意志をつらぬかせたいと懇望したが許さなかったのだった。
石川佐兵衛は暗愚でも、時流が廻米、廻船問屋というものを恵んだ。そこに湯川氏の数算と長年の蘊蓄《うんちく》が役に立って石川の家運はあがった。その頃の湯川氏の知己の名は自毛村《じけむら》であるとか、三野村《みのむら》だとか錚々《そうそう》たる大実業家となった人たちである。石川屋は三井物産前身の如きものだともきいたが、やがて石川屋は没落し、それよりずっと前に湯川氏はまた動きだした。あたしが知った老爺《おじい》さん湯川氏は、それからずっと後の彼だったのだ。
あたしの家《うち》で――彼のいう長谷川|氏《うじ》の宅で、彼のために小|晩餐会《ばんさんかい》が催されたことがある。彼の老妻や、他の娘や、娘たちの婿なども寄りあつまったが、客座敷ではなく常の食事をする室で、各自《めいめい》膳《ぜん》で車座になってお酒も出た。
「いや、どうも、かくお手厚い御饗応《ごきょうおう》にあっては恐縮のいたりで――」
木魚の顔が赤くなって、しどく豊《ゆたか》に、隠居《いんきょ》じみた笑いを浮べて、目をショボショボさせながら繰返していっていた。
「老爺さん、こんどこそはひとつモノにして下さい、なにしろ君にいためられた皆《みんな》が浮かばないよ。こっちの家《うち》だって、なんだかんだって大変だあね。」
そういったのは姉娘の婿――遠州では仲人にたった旗本だった。
「それは大丈夫だ、こんどはウンと
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