川氏も、自分の本質を空しくして、ただ長く生きた九十年の生涯である。
老爺さんは、湯川というのも自分の本姓《ほんせい》ではない。仙台屋敷に生れたから仙台様の藩士だろう。お留守居《るすい》役だともきいたが、廻米《かいまい》の事に明るかった。父親もその役だったと見える訳があるから、江戸で生れた東北系の人である。
廻米とは仙台領の米を船で廻してくることで、その領地米を江戸|邸《やしき》で受取る役人なのだ。江戸詰の藩士の禄高通り全部米で与えたものなのか。あるいは金に代えて渡したものなのか。よくきいておかなかった。当時の蔵前の札差《ふださし》や、浜方などとの取引関係から、数算にたけ、世估《せこ》に長じていなければならない、いわゆる世渡り上手の人物でなければならないのに、湯川氏はみいりのよい父祖の職をきらって御直参《おじきさん》の株をかった。直参といえばていさいはよいが、木《こ》っ葉《ぱ》旗本、貧乏|御家人《ごけにん》の、その御家人の株を買って、湯川金左衛門|邦純《くにすみ》となったのである。湯川という姓は無論買った家の姓で、金左衛門も通り名である。しかも、養父――名ばかりの、御家人株の売手が拾歳《とお》下なので、嘘《うそ》の年齢が出来上ったために、娘たちを妹にして幕府の人別帳《にんべつちょう》に記入して貰い、とにかく御直参にはなった。が、すぐに幕府は瓦解《がかい》した。株を売った真の徳川御家人の一人は、先見の明《めい》をほこって、小金貸《こがねかし》でもはじめたであろうが、みじめなのは、新《ニュー》湯川金左衛門邦純であった。
尤《もっと》も老爺《おじい》さんの妻の父親が、上野|輪王寺《りんのうじ》の宮《みや》に何か教えていた××安芸守《あきのかみ》という旗本で、法親王が白河へお落ちになってから建白書のようなものを書いて死んだ人であり、身寄りにも上野の彰義隊《しょうぎたい》で死んだ若ものもあったから、算盤《そろばん》をはじく武士より直参武士になれと進められたのかも知れない。とはいえ新御直参一家は、五月十六日朝の官軍上野攻めで狼狽《あわ》てた。いよいよ敗軍ときくと逃出す騒ぎで、什器《じゅうき》を池のなかに投込んだり――上野山下の商家では店の穴蔵へ入れたという――井戸へ入れておいたりして逃出した。老爺さんの二女――総領娘はある大名|邸《やしき》に御殿奉公をしていた――私の母は九歳だったが、男髷《おとこまげ》にしていたので小刀を差して連れられて逃げた。吉原の土手下で夜を明した時、どこのものかが名物の土手の金《きん》つばをくれたが、その大きさとうまさを何時までも忘れなかったと言った。そうしてこの新御直参一家はみずから没落し、徳川十六代|亀之助《かめのすけ》様のお供、静岡|蟄居《ちっきょ》というはめにおちた。
品川から出た二艘《にそう》の幕府の汽船に押し積まれて静岡へまでもつれてゆかれる幾百戸かの家族、それは徳川にしても厄介ものだったに違いない、ついてゆかねばならぬというものの中には、こうした一家もあったのだ。静岡へいったからとて何の当《あて》があるのではなし、百姓泣かせがいちどきに流れこんだのだった。命と体だけを積んでもらった故、勿論《もちろん》たいしたものは持ってゆきはしない、家財はみんな捨てていったのだ――こんな時だとて、上のものの方はどうにかなったであろうが、耕す土地とてそうあろうわけはなし、無禄無扶持《むろくむふち》になった小殿様たちは、三百年の太平|逸楽《いつらく》に奢《おご》って、細身《ほそみ》の刀も重いといった連中である。忽《たちま》ちにして畑の芋盗人《いもどろぼう》となり、奥方は賃仕事をして糊口《ここう》をしのいだ。
湯川氏の家では不用になった袴《はかま》が商品に化けた。仙台平《せんだいひら》や博多《はかた》の財袋がつくられて売られた。お百姓がお客様なのであるが、売手に怖《おそ》れて近寄らないのと、売る方でも気まりが悪いので、七夕《たなばた》の星まつりのように篠《ささ》の枝へ幾個《いくつ》もくくりつけて、百姓の通る道ばたに出しておいて銭《ぜに》に代えた。
幕府の瓦解は御直参と威張った旗本、御家人の墜落ばかりでなく、大名も廃藩置県《はいはんちけん》となったから、湯川の姉娘も帰ってきた。ともかく、わびしさのつづく中に振り袖姿の年頃の娘を見る事は親たちは嬉しかった。この娘だけが失わずにいた衣装道具を、失わさずにおかせたいと思った。とはいえ用捨《ようしゃ》なく生活《ここう》の代《しろ》は詰るばかりである。それを助けるためにお供の連中は遠州《えんしゅう》御前崎《おまえざき》に塩田《えんでん》をつくれとなった。
あたしの母は十二になって、屈強《くっきょう》な体力をもっていた。姉と妹二人はどうにもならなかった。彼女は小船を漕《こ》い
前へ
次へ
全6ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング