皆をよろこばせる。」
もうその頃は七十位だったのであろうが、遠くへ単独《ひとり》でゆくような様子だった。
「味噌も米も困らないように送ってあるから。」
と彼の老妻はつぶやくようにいった。そしてみんなが何処《どこ》へか送っていった。
「牛肉の佃煮《つくだに》でも送ってやったら――」
父がその後、母にむかっていっていた。
「だが、今度もあてにはならないぞ。」
そういうふうに彼は二年も三年も漂然《ひょうぜん》といなくなって、現れるとムッツリとした風貌《ふうぼう》を示し、やがてまた人々に送られて、至極満足そうなニコニコ顔で出かけた。
そうした祖父の存在は子供たちからは忘られがちで、外祖母は末の娘と二人で住んでいるものだとばかり思った。上野下の青石横町に住んでいたころも、根岸のお行《ぎょう》の松のすぐきわに、音無川の前にいたころもそうだった。老嬢《おうるどみす》になった娘のミシン台とたんすが一棹《ひとさお》あるきりのわびしい暮しかただった。どうしてこんなにガランとしているのかと思ったが、それはみんな湯川氏が硫黄《いおう》発見に入れこんでしまうのだった。たまたまとまりにいった時、祖父が帰ってきたりすると、妙な風躰《ふうてい》をした男がぞろぞろくるので嫌《いや》でならなかったが、家に帰って父に訊《き》くと、父はまたかというようで、
「老爺《じい》さんまた賺《だま》されなければいいが。」
と呟《つぶ》やいた。彼の周囲のものも、僅少《きんしょう》な家禄《かろく》放還金をみんな老爺さんの硫黄熱のために失われてしまっているのだということを、あたしたちも段々に悟《さと》った。
なにが湯川老人をそんなに硫黄狂人にさせたか知るものがない。ともかく四十年からの彼の事業である。重に北の方を歩いていたが小笠原島あたりにもなんのためか長くいた。山のめききは凄《すご》いほど当ったが、訓練にも工夫をつんだが、悲しいかな老爺さんの発明は、丁度お直参の株をかったのと同じようにいつも世界の年代からおくれている。強情で頑固なところが最進智識をすこしも求めようとしないで、自己流の工夫でコツコツやるのだった。そのうちに年月は十年も十五年も飛び去る。老爺さんの頭はだんだん凸凹が多く深くなって、黴《かび》がはえたようにそのくぼみに埃《ほこり》がたまる――
ある時、ヒョックリと現われた湯川氏は、赤い毛布《ケット》をマントのように着て手拭《てぬぐい》で咽喉《のど》のところに結びつけていた。山籠《やまごも》りから急に自分の家にもゆかず長谷川|氏《うじ》をたずねて来たのである。いそがしい父の小閑《ひま》を見ては膝《ひざ》をすりあわせるようにして座りこんでいた。いつも鉱山《やま》のことになると訥弁《とつべん》が能弁《のうべん》になる――というより、対手《あいて》がどんなに困ろうが話をひっこませないのだ。父は他人《ひと》の紛糾《ふんきゅう》事件で家族に飯をたべさせているのだから、煩《わずら》わしいことをきくので頭が一ぱいであったろうに、例の大木魚の顔がムズと前に出たらダニのように離れない。私は子供ながらハラハラした。父の前からはなるたけ離れているように家族は心懸けている。父も子供にも小言もいわない位に離れているのに――で、私は好奇だからでもなんでもなく、なるだけ大木魚の老爺さんの顔を自分の前にもってくるようにした。一体アンポンタンは家のものから遠ざかってポカンとしてばかりいたのに、木魚の老爺さんとだけ話をするのでよっぽど妙だったかもしれない。
「おじいさんに恐山《おそれざん》へでも連れてってもらうがいい。熊とおじいさんと三人で住むんだ。」
そんな事を大人はいって笑った。
アンポンタンと湯川氏はポツンポツンと問答をはじめる。
「おじいさんの頭はどうしてこうデコボコになったの?」
「小笠原島で亀《かめ》の子の卵をあんまりたべたので、勢《せい》がついてデコボコになってしまった。」
「小笠原島の亀の子って、大きいの?」
アンポンタンは、背中に題目を彫られた大きな亀がつかまって、も一度海にはなされるとき、お酒をのませたのを覚えていて、その二尺五寸もある甲を思いうかべていた。
「そうだよ、大きな亀の子が揃って出て来て、浜の砂を掘って、ズラリと並べて卵を生んでゆくのだ。人間はそれを盗むのだからいけないな。」
「おじいさんも盗んだの?」
「そうだよ、盗んで幾個《いくつ》も食べた。」
「なんのために食べたの?」
「長生《ながいき》をするためにさ。」
「何故《なぜ》?」
「硫黄を――質《たち》のいい硫黄を製造して――硫黄の出る山はウンと見てあるのだけれど――お前のお父さんが承知さえしてくれれば……」
おじいさんは刀豆《なたまめ》煙管《キセル》をジュッと吸った。
「恐山《おそれざん》に熊が出る
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