の?」
「出てくるがなんともしない。」
「どんな風にしているの?」
「紙帳《しちょう》とていってな、紙で張った蚊帳《かや》みたいなものを釣って寝るのだ。寒さよけにもなるしな、火を焚《た》いておくと、熊はくるがおとなしいよ。」
私は熊の子と友達になってもいいなという気持ちになる。紙帳のことは『浅間《あさま》が嶽《だけ》』という、くさ双紙《ぞうし》でおなじみになっている、星影土右衛門という月代《さかゆき》のたった凄《すご》い男が、六部の姿で、仕込み杖《づえ》をぬきかけている姿をおもいだし、大きな木魚面の、デコボコ頭の、チンチクリンの老人を凝《じっ》と見詰《みつ》めた。
「おじいさんは硫黄山へ何もかもつぎこんでしまったのだって?」
「出来上ればみんなを悦《よろこ》ばせるのだが――」
おじいさんは、版下を書くように、細かく綺麗《きれい》な字を帳面一ぱいに書きつけたのを出した。分らない私にも説明しようとした。四寸ばかりな算盤《そろばん》をだして幾度《いくたび》もはじいた。
老爺さんの根気に負けて、父が福島県下へ連れてゆかれたのは、磐梯山《ばんだいさん》だか吾妻山《あずまさん》だかが破裂したすぐあとだった。父はヘトヘトになって帰って来て座らないうちにいった。
「出来るだけのことならしてやろうよ、あの年でたいした気根《きこん》だ。」
あの老人が山へはいると仙人のように身軽になって、岩の上なんぞはピョンピョンと飛んでしまい、険《けわ》しい個所ではスーッと消てしまったように見えなくなる。気がつくと遥《はる》か向うでコツコツ何かやっている。さながら、人跡未踏《じんせきみとう》の山奥が、生れながらの住家のようで、七十を越した人などとはとても思われない。山の案内人などの話でも老爺さんが一足|踏《ふ》み入れて、あるといった山に硫黄のなかったためしがなく、歩いていると、ふと向うの山の格好を見て言いあてる。土地の者たちも神様のように言っているというのだった。
「だが、宿は温泉だといっておいて赤湯だの、ぬる湯だのと、変な板かこいの小屋へ連れていって、魚の御馳走《ごちそう》だといって、どじょうを生《なま》のまま味噌汁《おつけ》の椀《わん》へ入れられたには――」
とすっかり閉口していた。でも、どうやらこうやら父から出資させる事になって老爺さんは欣々《きんきん》と勇んだ。情にもろくって、金に無頓着《むとんじゃく》な父は、細かい計算をよく噛《か》まなかった。損徳よりもただ幾分の出資を捨る気でしたのだったろう。
老爺さんが得意になると、今まで冷笑していた親類《みより》のものが手伝い志願を申出た。自分たちも損をしただけ取りかえそうという、御直参旗本の当主や子や孫である。
梅干《うめぼし》幾樽、沢庵《たくあん》幾樽、寝具類幾|行李《こり》――種々な荷物が送られた。御直参氏たちは三河島の菜漬《なづけ》がなければ困るという連中であるから、行くとすぐに一人ずつ一人ずつ落伍《らくご》して帰って来てしまった。そして言うことはおなじだった。
「何しろ、一鍬《ひとくわ》いれるとプンと強く硫黄が匂うのだから、胸が苦しくって飯も食えない。」
老爺さんの硫黄はよく出来た。しかし近間の山林は官林なので、民有林から伐木《ばつぼく》して薪《まき》を運ぶのに、嶮岨《けんそ》な峰を牛の背でやった。製煉《せいれん》された硫黄も汽車の便がある土地まで牛や馬が運んだ。東京や横浜へ送られると、運賃と相殺《そうさい》でフイになってしまう。
その後も幾度か繰返された失敗のあとで、晩年を湯川氏夫妻は長谷川氏に引きとられた。八十を越しても硫黄の熱は燃《もえ》ていた。小さい机にしがみついたまま、贅沢《ぜいたく》は身の毒になると、蛍火《ほたるび》の火鉢に手をかざし、毛布《ケット》を着て座っていた。例により珠算《たまざん》と、細かい字と、硫黄の標本をつくったり、種々にして手に入れる硫黄の一つまみを燃したり製煉したりして、庭隅に小さな釜をこしらえたりして首をひねっていた。その頃は父も閑散《かんさん》な身となって佃島《つくだじま》にすんで土いじりをしていたので、一所に植木いじりはしていたが――たまたま粋《いき》な客などが来て、海にむかった室で昼間の一酔《いっすい》に八十翁もよばれてほろよいになると、とてもよい声で、哥沢《うたざわ》の「白酒《しろざけ》」を、素人《しろうと》にはめずらしい唄《うた》いぶりをした。もう大人になっていた私が吃驚《びっくり》すると、老人の老妻は得意で、
「おじいさんは、お金を湯水のようにつかった、いきな人ですよ。」
と彼女も小声で嬉しそうに口の中で何か唄った。
「おじいさんには面白いおはなしもございますのさ。私がね、誰かの初《はつ》のお節句のおり、神田へ買ものにゆきますとね、前の方に
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