ちが笑うと、小さな眼をとんがらして怒った。なまけ学生だったに違いないのは、本箱に入れてあるものは、三遊亭円朝《さんゆうていえんちょう》作の人情咄《にんじょうばなし》だった。時折女中たちに目っかって喧嘩《けんか》の時に言いだされてしょげていたが、子供たちに威張《いば》るときは、円朝の凄味《すごみ》で眼をしかめたり、声を低くしたりした。
 旗本|加頭《かとう》一家、三人兄弟は、一番上の義輝《よしてる》が凄かった。それこそ、巌夫が円朝の怪談ばなしでやるより真の凄味だった。ある日、あたしはお稽古《けいこ》がおくれて、日が暮てから帰ってきた。そのころ、まだ燈火の種類がさまざまだったので、花|瓦斯《ガス》が店の屋根にチカチカ燃ているかと思うと家の中は行燈《あんどん》であったりする。あたしの家も洋燈《ランプ》の室《へや》もあれば、行燈もあるし、時によると西洋|蝋燭《ろうそく》をたてた硝子《ガラス》のホヤのある燭台も出ていたりした。
「ただいま。」
といって奥の間へ行くと、行燈の横に座って、うつむいて御飯を食べているものがあった。あたしは何の気もなく蔵前《くらまえ》にいって、階段に足をかけながら振りむくと――正《しょう》のもののお化《ばけ》かと思った。
 キャッともスッとも声が出ないで、びっくらして見詰めていると、ニヤとしたように赤い唇を歪《ゆが》めて、上の方についてる片っぽの眉《まゆ》をピクリと動かした。
 ――その鼻は、お茶|碗《わん》の中を突《つ》つくほど高く、のめっていた。長い長い痩《や》せた青い顔、額に深い大きな痕《きず》あとがあって、そのために片っぽの眼がつりあがり眼玉が飛出している。髪の毛が額にぶるさがって、細っこい肩――体なんぞは消てしまって、顔ばかりしかないように見えた。大きな飯櫃《おはち》の蓋《ふた》を幾度も幾度もあけて、山のように飯を盛ると、すぐにまたよそっている。やっとそれがすんでしまうとお膳を押出して、だまって、吃驚《びっくり》しているあたしの顔をギロリと見た。
 それが鎗《やり》一筋の主《あるじ》だという加頭義輝だった。眼の強《きつ》い、おなじように長い顔だが色の黒い輝夫という人が、紬《つむぎ》の黒紋附きを着て来ていたが、大変理屈ずきで、じきに格式を言出していた。あたしが脅《おび》えきっていると、怖《こわ》くはない、加頭の兄さんで、おとなしい人だと家の者がいった。あたしは武士だった人たちだから刀|疵《きず》であろうと思って凄いけれど敬意をもっていたら、あの人はあんまり遊んでばかりいたのであんな顔になったのだと言ったものがあった。
「いや、怖いはずです。」
と親味の弟でさえ言った。
「私たちでさえ、見なれていてもギョッとする時がありますからな、好い気持に寝ていてふッと目を覚すと、知っていながらよくはありません。一ぱい機嫌で帰った時なんか、お世辞なんぞいってくれない方がいいと思いますよ。」
「行燈《あんどん》のそばに、立《たて》ひざをして、横むきだったら、菊五郎の庵室の清玄《せいげん》だね。」
と父でさえいった。
 末の弟は特長のない、それだけ普通の人だった。この一家は中の弟が家長になって、兄貴の方が居候《いそうろう》だった。女たちは封筒を張ったり、種々の内職をしていたが、時々男たちは殿様気分を出して威張った。三番目のあたしの妹を可愛がって、自分の家へ連れていってしまうこともあった。あたしたちは幼いお丸ちゃんによくこういって聞いた。
「あの顔こわくない?」
 名の通り円満なおまるちゃんは首を振って笑っていた。
 アンポンタンと妹のおまっちゃんは上野のお花見に、父に連れてってもらった時――もう夕方だった。多くの人が浮かれながら帰ってゆくあとを、父は子供の方は忘れたように桜を見ながらブラブラ歩いていた。二人は手をつないで後からついていったが、そろそろ暗くなりかけた時、賑やかな一団が、間は離れていたが摺《す》れちがった。鉢巻をした男の頭に肩車をして縋《すが》っている小さな女の子がいる。よく見るとおまるちゃんだった。赤いはだぬぎで、おんなじように鉢巻きをしていた。それをとりまく男女の一群は、みんな片はだぬぎで、赤や鬱金《うこん》の木綿の鉢巻きをしてはしゃいでいた。
「ああおまるちゃんだ。」
 彼女の小さい姉たちは声をかけた。
「おまるちゃん――」
 彼女は男の頭の上から答えた。
「亀《かめ》の年だあい。」
 そして、キャッキャッと悦《よろこ》んで男の頭を叩《たた》いた。叩かれているのは理屈やの輝夫だった。
「そうだ、そうだ。」
と男女は陽気に合づちをうって行きすぎてしまった。
 父はちょいと振りかえって笑いかけたが、声はかけなかった。あたしたちは、振りかえり振りかえりして、おまるちゃんが自分たちの方へこようとしなかったのをさび
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