古屋島七兵衛
長谷川時雨

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)顕官《けんかん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)役者|市川団十郎《いちかわだんじゅうろう》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)もぐり[#「もぐり」に傍点]
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 古屋島という名は昔の武者にでもありそうだし、明治維新後の顕官《けんかん》の姓名にもありそうだが、七兵衛さんというと大変心安だてにきこえる。葱《ねぎ》を売りにくる人にも、肥《こい》とろやさんにも、薪《まき》屋さんにもありそうな名だ。この名を覚えているのは、あたしの家《うち》の書生さんだったから――というより、道十郎《どうじゅうろう》めっかちを思いださせる顔だったからだ。
 道十郎めっかちというのは、キシャゴの遊びで、つぶの大きなキシャゴを二つもって、上からふると、片っぽひっくりかえって、貝殻《かいがら》の背でない方を出す、それが道十郎めっかちで、なんのためにそういう名がついているのか知らない。それとも江戸から続いて有名な役者|市川団十郎《いちかわだんじゅうろう》の代々が、大きな眼玉で通っているので、片っぽひっくりかえって団十郎めっかちが転化したものかどうか、それとも他に由縁《ゆえん》があるのか知らない。
 それはどうでも好いとして、古屋島氏の顔に、汚《きた》ないキシャゴの道十郎めっかちがついているのだった。おまけにそれがばかに大きい。濁って、ポカンと開いた黄色い中に、眼球《ひとみ》が輝きもなく一ぱいに据って動かずにいる。盤台面《ばんだいづら》で、色が黄ばんだ白さで、鼻が妙に大きい。ザンギリで、下を向いていて、ヘエ、サヨサヨという時だけ眼球を上にあげる。
 書生さんといったからとて、五十近かったかもしれない。黒い前掛けをしめて、角帯《かくおび》に矢立《やたて》をさしている時もあった。
「あれはなんなの?」
 アンポンタンがそう訊《き》いたことがある。
「あの人は公事師《くじし》といって、訴訟がすきで――三百代言《さんびゃくだいげん》……」
 アンポンタンは子供心にこう理解した。代言人のとこへくるから三百代言?
 三百人は来はしないが、そういう通いの書生さんは大勢来た。よく考えて見ると、自分たちの手におえなくなったものを担ぎ込んできて、便宜上、先生先生とやって来たものと見える。そのうちに、小さな仕事――差押え解除だとか、書翰《しょかん》の写しだとか、公判の延期だとか、相当の用をもらって、彼らはもぐり[#「もぐり」に傍点]でなく、大手を振って裁判所に出入する特権を、幼くもよろこんだのであろう。
 日本橋区|馬喰町《ばくろちょう》の裏に郡代《ぐんだい》とよぶ土地があって、楊弓や吹矢《ふきや》の店が連なった盛り場だったが、徳川幕府の時世に、代官のある土地の争いや、旗本の知行地《ちぎょうち》での訴訟は、この郡代へ訴えたものとかで、その加減かどうか、馬喰町には大きな旅籠屋《はたごや》が多く残っていた。おかしなことに、古屋島七兵衛さんは、郡代の裏の、ずっと神田の附木店《つけぎだな》によった方の、小《ち》いっぽけな、みすぼらしい木賃《きちん》のような宿屋の御亭主であった。
 ある日、眉《まゆ》のあとの青いおかみさんが女の子を連れて来て、祖母にボソボソ言っていたが、またあとから白髪《しらが》の黄《きい》ろいのを振りこぼしたお媼《ばあ》さんが来た。二人はシメジメと呟《つぶや》き訴えていたが――道十郎めっかち氏が浮気をしているのだと――其処《そこ》へヒョッコリ七兵衛氏が帰って来たので稼業にせいを出さなければいけないと祖母に意見され、ヘエ、サヨサヨ、ヘエ、サヨサヨとつづけざまに上眼《うわめ》をしてお辞儀《じぎ》をしていたが、子供と三人の中へはさまれて、角帯に矢立をさした年老いた書生さんは夕暮の小路をうつむきがちにブツブツ小言をいいながら帰っていった。
「争われないもので、どうしてもポン引だ。」
と七兵衛さんの後姿を見ていったものがある。
「あれでなかなかひっかけるのだそうだから、あのかみさんもその手で引いたかな。」
 この会話は聞いていたアンポンタンを困らせた。早速質問すると、言ったものは困った顔をして、繰返して自分が教えたといってはいけないといって教えてくれた。
 ――ポン引というのはお客を釣ることで、ポッと出の田舎の人を釣るのだが、七兵衛さんは、門《かど》に立って夕方になると、宿《とま》り客をひくのだ。手前、何々屋でございます、いかがさまです、お安くお宿《と》めします。お座敷は至極奇麗ですと――
 七兵衛さんに急用が出来て使いがよびにゆくとき、あたしはコッソリ連れてってもらった。門に立ってお辞儀している七兵衛さんを予想したが、おそろしく不機嫌な御亭
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