しがった。ひょいと方向が違ってしまったと見えて大木《たいぼく》の根をグルリと廻って見ても、そこに父の姿は見出せなかった。
迷児《まいご》になってしまったのだった。二人はベソをかくのを隠しっこをしてウロウロしたが上野の山は桜が白くこぼれて、山下の燈があかるいほどなおさびしかった。鐘つき堂の鐘が鳴った――
ふと、青石横町の、母方の祖母の家で、寝ざめや、寝ぎわにきいた、三ツは捨て鐘で、四つめから数えるのだときいたことから外祖母の家を思いだした。おばあさんの家へいっていたら、父がたずねて来てくれるかも知れないと気がついた。青石横町にいると、五月雨《さみだれ》の雨上りの日など抄《すく》い網をもって、三枚橋の下へ小蝦《こえび》や金魚をすくいに来たから、石段をおりれば道は知っていた。おさないはらからは、手をつないで、ぼんやりと、暗くなってからやっとその家に辿《たど》りついた。
おまるちゃんが「亀《かめ》の年」といったのは、よく諸方で可愛がられる子で、近所の――そばや利久の前の家――酒屋で、孫娘のように大事にしてよく借《かり》に来た。お酒がすきで、亀の年という甘いお酒(瀬戸物の大きな瓶《かめ》のかたちの器にはいっていた)をのませたのでその名をよく覚えてしまって、ある時、お前は卯《う》の年、お前は巳《み》の年と年寄りが言っていたらば、
「あたしは亀の年。」
といって、それから自分の名にしてしまっていたのだった。
この加頭一家は、十一月の酉《とり》の町には吉原土手へ店を出した。熊手の簪《かんざし》を売ったこともあったが、篠《ささ》に通したお芋を売った。がりがりの赤目芋だった。それを一家中が前の日の夕方から担ぎだして、戸板まで運びこんでゆくのだった。新智識の代言人の書生さん一家が、黒紋附きで、あるいはカンゼよりの羽織の紐《ひも》で、あるいは古新聞で畳んだ十二|煙草《タバコ》入れをもって、酉《とり》の町の際物師《きわものし》となる。いらっしゃいいらっしゃいと景気よく呼ぶのだそうだが、あたしにはどうしても勢いのいい景色が思いうかばなかった。
後にアンポンタンが十六の時祖母が死んだが、その時、この兄弟がたてた葬式のプランが、なんにも知らない町娘のあたしをさえふきださせた。
彼らはいった。昔の士分の格式にして、この家の生活はいくらか!
甲論《こうろん》、乙駁《おつばく》、なかなかにまとまらない。長い長い巻紙へ書き出してきたのを見ると、あたしが馬車へ乗って白無垢《しろむく》を着る――
まだ、そこまではまず好いとして、おさげ髪、額に黛《まゆずみ》!
ばかばかしくなって腹が立った。江戸っ子のおやっちゃんは浴衣がすきだ――ともいえなかったが――
そういったも無理がないと思ったのは、仕立屋で博識《ものしり》で、やはり三百の組の井坂さんが話したことだが、この加頭一家の輝夫が死んだ時――もう家の書生はしていなかった――陋巷《ろうこう》に死したのだが、例の格式で、借りものの白むくの三枚重ねを女たちはみんな着たが、肝心《かんじん》のやかましやがさきへ死んだので、細君――昔の旗本何千石かの奥方は、結びがみのまま、しかも下駄を買うのをわすれて古びた日和下駄《ひよりげた》をはいていったと――
井坂さんは類《たぐい》まれな世話やきの親切ものだった。向う新道の、例の角のおいもやさんの後の、大丸のおあぐさんの家の塀の前に住んで小僧さんと職人の三、四人がいた。暮になると人を増していた。いつも綿を入れたり、火熨斗《ひのし》をかけている女房《おかみ》さんは、平面《ひらおもて》ではあったが目に立つ顔で、多い毛を、太い輪《わ》のおばこに結っていた。岩井松之助という、その頃の女形の役者に似ている気がした。親方井坂さんは腕の好い仕立職人だが、どうもじっとして仕事がしていられないと見え町内のことから、何からかから、成田山の講元でもあれば裁判所のことにも興味をもっていた。だから、ある時は、修験者のかける大きなつぶの数珠《じゅず》を首からかけて、みけんへ深い立皺《たてじわ》をよせて真言《しんごん》秘密、九字の咒文《じゅもん》をきっていることもある。あたしの父が、悪太郎の時分からの知りあいだ。
仕立やの店は、その実|女房《おかみ》さんのお稽古所だったのだ。常磐津《ときわず》のおしょさん[#「おしょさん」に傍点]だった文字春《もじはる》さんの家が仕立や井坂さんになったのだ。悪太郎の父は、ませていたその頃の小若衆《こわかしゅ》、井坂の浜さんが文字春さんのところへくる夜、格子の敷居に犬の糞《ふん》をぬっておいた。浜さんが意気な姿で格子をくぐって、おしょさんの前に座ると、おや、いやな匂いだといったので、笑い出しておっかけられた――そんな不良どもが、法律の先生になったのだから、仕立や浜さん
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