いってもよい場処の大呉服店に、そうした窓が、しかも一丁の半分以上をしめて金網が張りわたされていたという事実がある。それはあたしも子供心に知っていた。盗品をおそれるのだといったが、それならば台所の窓にまでしなくってもよいはずである。外からの盗人を怖《おそ》れたのではない。
 理屈はやめて、大丸はその近所の者にとって、何がなし目標点だった。物珍らしい見物《みもの》があれば、みな大丸の角に集まってゆく。鉄道馬車がはじめて通った時もそうなら、西洋人が来たと騒いで駈附けるのも大丸であるし、お開帳の休憩もそこであった。アンポンタンが知らない時分の大丸は、神田から出た北風《ならい》の火事には、類焼《やけ》るものとして、蔵《くら》の戸前《とまえ》をうってしまうと店をすっかり空にし、裸ろうそくを立てならべておいたのだという、妙な、とんでもない巨大《おおき》な男店《おとこだな》だった。
 大丸は大伝馬《おおでんま》旅籠《はたご》町から大門通りへ折れまがって裏まで通った、一丁の半分以上を敷地にして幾戸前かの蔵と店とで、糸店《いとだな》によった方に広い土間があった。表附きは明《あけ》っぴろげではなく、土蔵造りのところどころに間口があり、そのほかは上部だけ扉があがって、下部は土で塗ってあった。大戸の上げおろしが、あの広い間口では大変だったせいもあろうが、その中側が一軒以上ぐるりとタタキになっている土間だった。老母の覚書にもある通りの紙の名札が、高い欄間《らんま》から並べて張ってあったが、それは店さきの畳からは、三間以上も奥の方だった。角の大黒柱を中にして、座りどころにも位置があるらしく、甚四郎、才助などと書いた両側に専属の小僧の名が、三ツも四ツも並べて書きつけてあった。
 店さきの諸所に、小切れをいれた箱が据《すえ》てあった。あたしの祖母は連合《つれあ》いが呉服の御用商人であり、兄がやはり絹呉服の御用商であった関係か、大丸とはゆかりがありげであった。あたしたちがよい事をしたおりや、若い娘客に何か与えたくなったおり、ちょいと曳裾《ひきずそ》のおつまをとって出かけてゆくさきは、いつも大丸だった。彼女がはいってゆくと、誰かしら顔を見た番頭が立って来て、小切れ箱から絞《しぼ》りばなしをつまみ出した。赤いのや、濃い紫や、浅黄のが取りだされて八釜《やかま》しぼりとか、麻の葉とか、つのしぼりとか、赤の黄上
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