、會所の基本元資にし、勘定所用達十人に委託して貸付け、その利子で吏員、用達商人、年番肝入り、名主の手當を給し一ヶ年の町費額を定め、前五ヶ年平均町費を差引き、其減額の一分は町内臨時の入費、二分は地主の増收、七分を積立金とし、明治初年、拜領地、拜借地返上のとき會へ抵當になつてゐた地所を下付されたので、千七百五ヶ所の地所をもつてゐたが、八年にはみんな賣却してしまつた。會所の金穀蓄積は、増大したをりには籾四十餘萬石、金は六七十萬兩あつたといふことだ。
鳥越《とりごへ》の新堀川に天文臺のあつたといふ古跡も私たちは知らなかつた。
幕府の米倉は、藏前《くらまへ》須賀橋から厩橋まで建つづき、大川に添つて、南北三百二十間、東北百三十間面積三萬六千六百餘歩と記されてゐる。八つの渠があつて、船の出入りを便にした。この渠は今でも知つてゐる人が多くあるであらう、黒い柵があつて水門が一つづつあつた。鬱蒼蟠居《うつさうばんきよ》の古木とある首尾の松は、清元「梅の春」に首尾《しゆび》の松《まつ》が枝《え》竹町のとうたはれてゐるが、この歌詞はたつた一つ例にあげただけで、首尾の松は下谷根岸の時雨の松(お行《ぎやう》の
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