木挽町にも正保元年から山村座がある。萬治三年には森田座が出來、見世物が賑はつてゐたといふことで、此處の芝居も、日本橋葺屋町堺町のと同時に淺草山の宿へ(これも隅田川流岸)移つたが、それは天保になつてから、例の水野越前の勤儉の時代、御趣旨のときである。芝口《しばぐち》は品川濱につづいて驛路の賑はつたことはまをすまでもなからう。
 淺草と本所とへ、大川を逆流させると、花火とは誠に趣のちがつたものとなるが、向柳原の町會所のことと、藏前の札差のことを並べなければ、大川のもつ富の半分を書き落してしまふことになる。向柳原は淺草見附けのすぐそばで、町會所《まちのくわいしよ》は寛政三年に創立されたのだから、今まで書いてきたものよりはずつと新しいが、松平越中守守信が市中町法を改正して、七分積金及市中窮民救恤を取扱つたところで、籾や、金や、抵當の地所を持ち、後に明治になつてから、道路、橋、及び瓦斯局や養育院創立の資金を支出した資源だといふ。吉田博士の「地名辭書」はこの町會所と基金は、都市自治の故法を見る所以の者で、都人の當に永記すべきものだと述べてゐる。
 會所の規定は、幕府より一萬兩づつ兩度の差加金を得て
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