、何代前の主人が借たのかさへ分明しなかつたともいつた。

 江戸の金融は、そのほかに幕府や諸藩の御金御用達があつた。それらの少數の富豪たちの息のかからない藝人、粹人はなかつたといつても間違ひはなからう。畢竟川開きもそれらの人たちからはじまつたと見てもよいかと思ふ。
 これだけでもあらかたの、徳川期隅田川筋の物資集散が知れるかと思ふ。大川橋《おほかはばし》といふ名でかかつた吾妻橋上流の兩岸は、あまり知れ亙りすぎてゐるほどの東名所《あづまめいしよ》で、いはゆる風流の淵叢となつてゐた。
 さて、花火のあがる兩國橋は、淺草見附升形を出ると、廣小路には見世物小屋、小屋掛芝居、並び床(理髮)並び茶や、このところ船宿料亭多しと名所圖繪には書いてある。荻生徂徠《おぎふそらい》が、
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兩國橋邊[#「兩國橋邊」は底本では「雨國橋邊」]動櫂歌    江風涼風水微波
怪來岸上人聲寂    恰是彩舟宮女過
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 と詠じたのは、舟遊びをほめあげるために陸には人が居ないやうにいつてゐるし、
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千人が手を欄干やはしすずみ
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