りずっと後《あと》の、大正六、七年ごろ、もう最後に近いおりの、がくりと頬《ほお》のおちた、鶴見《つるみ》のわたしの家で会食したおりの、つかれはてた顔ばかりが浮んでいる。
 荒木郁子さんが、清子さん母子の墓のことを気にかけていたのは、清子さんの死後託された男の子を、震災のおり見失なって以来、十年にもなるがわからないから、その子も一緒に入れて建てたいという発願《ほつがん》だった。
 郁子さんは、玉茗館《ぎょくめいかん》という旅館の娘だったので、清子さんの遺児はその遺志によって、『青鞜』同人たちから、郁子さんに依託することになった。そして、あの大正十二年の大震火災のおり、広い二階座敷にいたその子は、表階段《おもてばしご》の方へ逃げた。郁子さんは、裏階段《うらかいだん》へ逃《のが》れた。表階段《おもてばしご》の方へ駈《か》けていった後姿は見たが、それっきりで、どんなに探しても現われてこないのだった。その子は――民雄《たみお》は、岩野泡鳴《いわのほうめい》氏の遺児ではあったが、当時の岩野夫人清子には実子ではないという事だった。父につかないで、清子さんの養子になり、離婚後も母と子として一緒にいた薄
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