か》をさして、満足気にいってたのを見て知っているということだった。
釣鐘マントの流行は大正三、四年ごろだった。その時分に、この夫妻は大阪から帰って、東京|巣鴨宮仲《すがもみやなか》に住んでいた。四年の夏のころ、清子の健康はすぐれていなかったことや、大正十二年に九歳位だというのにも合っている。しかも、泡鳴氏が清子さんに別れる時、
「もう、あなたとも、永久のお別れですね。」
といったとき、泡鳴氏はこういっている。
「おれはそうは思わない。いつ喧嘩《けんか》して帰って来るかも分らない。それに坊やは時々見にくるよ。」
泡鳴氏は、そのころ、筆記者に雇った蒲原房枝《かんばらふさえ》(後《のち》の夫人)と、不義の交わりがつづいていたのだった。
「蒲原とのことならば、もう一月も前から……が出来《でき》ていたのだが、私はあなたに対する尊敬は、今日でも持っている。」
とその関係を軽い調子で告白したのだった。
それは、清子にとって、重大なことだった。同棲して七年間、泡鳴の品行に一点の汚点もなくなったことは、清子の誇りでもあり、泡鳴の誇りでもあったのだ。多年の放縦《ほうしょう》生活を改めたという、家庭の
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