それには、うんといわなかった清子も、稽古《けいこ》を見にいってくると、すっかり厭《いや》になって断ってしまった。
       *
 いよいよ泡鳴が大阪へ出立《しゅったつ》する二日前の、三月廿六日の日記には、
 ――私の心は黒い夜の森のような、重い空気につつまれている――
と清子は書いている。二人で饑《う》えても離れて心配するよりいいというような泡鳴からの手紙を読むと、想思の人が東西を離れるようになるとは、ほんとに憂世《うきよ》ではあるといい、苦労をともにする人は、呼べど答えぬ百余里の彼方《かなた》の難波《なにわ》の宿にいるといい、すこしばかりの金を手にすると、この金を旅費にして、大阪にゆこうかしら、会いたいのは私ばかりでもあるまいからと、一緒にいれば、争闘《あらそい》つづける泡鳴を恋い慕った。蛙《かえる》の声が気のせいか、オオサカオオサカときこえるともいうようになっていた。
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君帰り物語りすと見しは夢、ふとうたたねの春宵《しゅんしょう》の夢
君住むは西方《せいほう》百里|飛鳥《とぶとり》の、翼うらやみ大空を見る
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と、だらしがないほど彼女
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