た、そのころは、自由劇場が、小山内《おさない》さんによって提唱され、劇運動の炬火《きょか》を押出した時でもあった。
 偶然といえば、今、わたしが机にむかっているところは、赤坂檜町である。十番地は乃木坂《のぎざか》のちかく、わたしの住居《すまい》の裏の崖《がけ》の上になっている。いま、音楽家の原信子《はらのぶこ》の住んでいるところとの間になっている。あたしが、はじめに赤坂の家から遠藤清子のお墓にゆくところを書きだしたのも、ふと、その事を思ったからだ。しかも、泡鳴が清子を訪れたのは十二月の一日がはじめてで、十日にはもう大久保《おおくぼ》へ移転《ひっこ》している。
 今日は、昭和となってから十二年、もっとも画期的な年の、南京《ナンキン》陥落をつげたその十二月であり、暦は廿二日だが――新劇運動の親、小山内|薫《かおる》氏のなくなったのも、クリスマスの晩で、十年前のこの月廿五日の宵《よい》だった。そして、自由劇場再進出の計画が、市川左団次《いちかわさだんじ》によって実現されようとしている。
 私は、霜白き暁を、多少の感傷をもって黙然《もくねん》としている。

       二

 テトテトと、暁
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