と、何処《どこ》やらに絶望を噛《か》みながら、それでも、純一に夫を愛そうと、恋の自伝を書くために、行李《こうり》の底へ押込めておいた、五年間もつづけたという霊の恋の、形見の書簡を、陶器《せともの》の火鉢をひっぱり出して燃してしまった。電燈が薄ぐらく曇る煙りのなかで、泡鳴を揺り起して見せると、
「妙なことをする人だ。急に何を思出したんだ、この夜更《よふ》けに。」
と、もうそんな事には興味ももたなかった彼は、ともすると、
「なにも、いやいやいてもらいたくない。」
というようになった。
       *
 前号に、荒木郁子さんに養われて、震災の時に死んだ男の子を、清子の実子でないように書いたが、それは、あんまり諸方|訊《き》きあわせたための行きちがいであった。生田花世さんは、その頃、ペンネームを長曾部《ながそべ》菊子といわれたが、芸術まず生活の実行からと、水野葉舟氏の家に女中奉公をされていた。仲のよかった岩野、水野の両家の交わりは、紫紺の釣金《つりがね》マントを着て、大丸髷の清子女史を伴なった泡鳴氏がお得意の面《おも》で、
「清子も、とうとう僕の子を、ここへ入れている。」
と、細君のお腹《なか》をさして、満足気にいってたのを見て知っているということだった。
 釣鐘マントの流行は大正三、四年ごろだった。その時分に、この夫妻は大阪から帰って、東京|巣鴨宮仲《すがもみやなか》に住んでいた。四年の夏のころ、清子の健康はすぐれていなかったことや、大正十二年に九歳位だというのにも合っている。しかも、泡鳴氏が清子さんに別れる時、
「もう、あなたとも、永久のお別れですね。」
といったとき、泡鳴氏はこういっている。
「おれはそうは思わない。いつ喧嘩《けんか》して帰って来るかも分らない。それに坊やは時々見にくるよ。」
 泡鳴氏は、そのころ、筆記者に雇った蒲原房枝《かんばらふさえ》(後《のち》の夫人)と、不義の交わりがつづいていたのだった。
「蒲原とのことならば、もう一月も前から……が出来《でき》ていたのだが、私はあなたに対する尊敬は、今日でも持っている。」
とその関係を軽い調子で告白したのだった。
 それは、清子にとって、重大なことだった。同棲して七年間、泡鳴の品行に一点の汚点もなくなったことは、清子の誇りでもあり、泡鳴の誇りでもあったのだ。多年の放縦《ほうしょう》生活を改めたという、家庭の
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