美事光明《びじこうみょう》が、一瞬にひっくりかえってしまったのだ。
清子はその侮辱を、冷静に考え処理しなければならないと思ったが、昂奮《こうふん》した。謀反者《むほんしゃ》の間にいることがたまらなかった。
蒲原房枝は彼女にこういった。
「こんな関係になりましたからって、決して定まった月給よりほか頂こうとは思っていません。私は、お金をもらって囲われているようなことはしたくないのです。」
それからの泡鳴は、いっそ知れてしまったのをよい事にして、夜ごとに公然と、蒲原のところへ出かけて行くようになった。
千仭《せんじん》の底へつきおとされた気持ち――清子にとって、それよりもたまらないのは、そうなっても夫婦関係をつづけようとすることだった。
別居か離別か、その二ツに惑った彼女は、青鞜社《せいとうしゃ》に平塚|明子《はるこ》さんをたずねた。
別居する決心がついた。収入の三分の二を渡してもらって、子供を養い、妻としての権利をもつのを条件に、私製証書は二通つくられた。
あんまり事件《こと》が突然なので、誰も彼もびっくりしたが、岩野氏はあっさりと、荷物を積んだ車と一緒に、
「さようなら。」
といって出ていってしまった
白々《しらじら》しい寂寞《せきばく》!
彼女はこんなことをいったことがある。
「あたしは芝で生れて神田《かんだ》で育って、綾瀬《あやせ》(隅田川《すみだがわ》上流)の水郷《すいごう》に、父と住んでいたことがある。あたしの十二の時、桜のさかりに大火事に焼かれて、それで家《うち》は没落しはじめたのです。その時の、赤い赤い火事に、幼い心をうたれた紅さと、泡鳴氏が出ていった夏の日の――八月でしたが、あの真昼の、まっ白な空虚さは、心からも、眼からもわすれられない。」
*
その後の清子さんは、切花《きりばな》や、鉢植の西洋花を売る店をひらいた。
泡鳴氏からの物質は約束通り届けられなかったものと見えた。後には、店の面倒をよく見てくれたり、深切にしてくれた青年と結婚した。大正九年に、その人との中に女の子が生れたので、夫の郷里京都へ、もろもろの問題を解決に旅立ったが、持病の胆石が悪化して、京都帝大病院で亡《なくな》った。
暮の押迫った時分だった。『青鞜』はもうなくなったが、新婦人協会の仕事で、平塚さんは東京が離れられなかった。ありったけの手許の金を送
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