る部屋をつくってあげようといい、結婚式は立派にしようと、優しくいった。
 けれど、けれど、清子の思想は主張は、強かった。四十三年の一年は、その相剋《そうこく》をつづけて、四十四年の一月、熱海《あたみ》への三泊旅行も、以前の関係のままで押通した。
 熱海の間歇《かんけつ》温泉ではないが、この、珍無類夫妻の間には、間歇的に例の無言の闘争が始まるのだった。そして、彼女は終日|唖《おし》になり、泡鳴はいろいろの所作をした。
「泣いたり、怒鳴ったりするのは、まだ悲しみや怒りの極《きわ》みじゃない。悲痛の極《きょく》は沈黙だ。沈黙が最も深い悲痛だ。」
と、泡鳴は言った。
 飽満《ほうまん》の後《のち》にくるたるみならば、まだ忍べるが、根本の愛の要求に錯誤があるからだと、彼女は悩みになやみぬいた、その夜の夜明けに、いよいよ気分をかえて、新しく彼を愛してゆこうと決心した。
「理智の判断を捨ててしまって、盲目に恋に身を投げだそう。そうしたら泡鳴も満足し、自分の淋しさも消えるかもしれない。」
 自分を没《な》くなすことは、もっと大きな自分をつくるために必要かもしれないと、彼女は自分に言いきかせた。そして、それをするならば、それは今日だ、この覚悟が崩《くず》れないうちにと思った。
 打明けるには、快《こころよ》い顔をしていたかった。気分を軽くするために、晴れた日の下に出た。お友達の家《うち》で闘球をして遊んで、夕ぐれになって帰るとき、これならば、心から笑って話せると思った。新しい恋人の心持ちで話しあおうと急いだ。はずみきって玄関から上りながら、旦那さまおうちときいたら、婆《ばあ》やは、お出かけですと答えた。
 清子の勢いこんだ覚悟は挫《くじ》けてしまった。
 泡鳴氏も苛々《いらいら》して酒ばかり飲んだ。そして、
「私は不幸な男だ。あなたも不幸《ふしあわせ》だ。その上、貧乏はする。さぞ詰らないだろう。」
とつくづく言った。精神的にも、物質的にも、なんとか打破しなければいけない。それには、生活をすっかり改《か》えるのに、限ると思ったためかどうか、『大阪新報』に入社することになった。後《あと》から清子も行くことになる前に、音楽家の北村氏夫妻が、新劇団体をつくるのに、女優にならないかと勧められて、清子の心は動いた。
「僕は自分の妻を、公衆《ひと》に見せるのは嫌《いや》だな。」
と泡鳴は反対した。
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