知らないと言った。すると直傍《すぐそば》に、青に白の線のある腕章をつけた交通巡査がいて、
「あるある、出雲町《いずもちょう》の交番の裏だ」
と深切におしえてくれた。わたしはこのごろ、こうした事を巡査や交番で聞くことが、大層自然になって、すこしも気まりが悪かったり、嫌な思いをすることがなくなった。ただ、裏という言葉をハッキリ聞いておかなかったのを不安に思った。
 間もなく出雲町の角の交番の前へたったわたしは、丁寧におじぎをしていた。
「この交番の裏ときいて参りましたが、この横町に御座いましょうか?」
 すると若い、いかにも事務に不馴《ふな》れのような巡査は、全く当惑したように固くなって、わざわざ帳面など繰りひろげて見たりしてくれた。わたしは光りの流れてくる資生堂(食堂)の明るい店内を見ていた。白い着物が寸分の絶間なく動く、白い皿が光る、ホークとスプーンとがきらめく、熱い飲料の湯気が暖かそうにたつ、豊かそうに人が出たりはいったりする。わたしもあそこへ腰をかけて、疲れを癒《いや》して、咽喉《のど》もうるおして、髪でもかきあげて訪《たず》ねるところへゆくとしよう。それにあすこで聞けば直《じき》に分るであろうと、そうしようとすると、
「向うの横へ曲って、そして右へいってごらんなさい。たしかそんな家があった気がする」
 親切に、一生懸命考えてくれて、すこし曖昧《あいまい》ではあるが、そうらしいからと教えてくれた。それを聞くとわたしは、裏というのは後を意味しているであろうことや、資生堂の暖かそうな飲料《のみもの》は、理窟《りくつ》なしに捨ててしまって「違っているぞ」と承知しながら、その方へむかって歩みを運ぶのであった。
 築地《つきじ》の海軍工場がひけたのであろう。暗い方から明るい方へと、黒い服のかたまりが押して来た。せまい歩道の上は、この人たちの列で、気の弱いものは圧倒され、たじろいで、立って待っていなければならなかった。若い娘たちは、下駄の歯をならして、おなじように厚いショールを前に垂らして、声高《こわだか》に話合ってゆく。まるで疲れを知らないようであるが、あの明るい町を突っ切って、暗い道にひとりひとり散らばってからは、どんな心持ちであろう。現在のわたしがそうした状態なのだが――
 三十間堀に巡査の教えた家があろうはずはなかった。わたしはぐるりと廻って新橋のたもとへ出た。そこの角にあるカフェーの横の扉《とびら》に、半身を見せて佇《たたず》んでいる給仕女《ウェートレス》があったので、ためらわずに近寄ってきくと、その娘は気軽くて優しかった。こちらからゆけば資生堂の一、二軒手前で、交番のじき後になっていることを、すこし笑いながら言って指差して知らせてくれた。わたしも微笑《ほほえ》ましくなった。若い娘さんに若い巡査さん、どっちも良い人で、好意をもってくれたことを感じた。娘さんにお礼をいって、笑いながら別れて、ぐるりと廻って交番の近くまで帰ってゆくのに、先刻おしえてくれた巡査の目にとまりたくないと思った。折角の好意が無になって、妙なものになるであろうと思い思い行った。

 冬靄《ふゆもや》が紫にうるんだような色の絹のカーテンが、一枚ガラスの広い窓に垂れかけられて、しっとりと光っているところに金文字でカフェーナショナルと表わしてあった。外飾りなど見るひまもなく、周章《あわて》て、扉の口へとびこんだ。カフェーへだとて、飲料《のみもの》がほしければはいりそうなものであるが、若い人の、歓楽境のようにされてるそうしたところへは、女人《おんな》はまず近よらない方がいいという、変な頑固《がんこ》なものが、いつかわたしのめんどくさがりな心に妙な根をはっているので、不思議なはにかみを持って扉の中へはいった。
 下足《げそく》にお客でないことを断って来意を通じてもらうと他の者が出て来た。また繰返していうと、こんどは絣《かすり》の羽織に袴《はかま》をつけた、中学位な書生さんが改めて取次ぎに出た。わたしはぼんやりしながら、三度目の繰返しをした。当の主人公は知っていても、此処の周囲の人たちは、変な来訪者だと怪訝《けげん》に思ったに無理はない。
 分前髪《わけまえがみ》の、面立《おもだ》ちのりりしい、白粉《おしろい》のすこしもない、年齢よりはふけたつくりの、黒く見えるものばかりを着た、しっとりとした、そのくせ強《しっ》かりとしたところのある、一目に教育のあることの知れる婦人が出て、あいにく逢えないことを詫《わ》び、明日の時間のことについて、二言三言丁寧な挨拶《あいさつ》がかわされた。わたしはその方との打合せでほっとした。カーテンのうしろの卓には、お客もあったであろう、二階の階段の下には、一かたまりになって美麗な女たちもいた。いつまでも硝子《ガラス》戸を後にして立っているわた
前へ 次へ
全14ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング