いっ児《こ》で、浜町花屋敷の弥生《やよい》の女中をしていた女が、藁《わら》の上から貰った子を連れて嫁入ったのだとも言った。
「お鯉さんは清元が上手ですよ、養父さんがしこんだんですからね。十三くらいに、弥生さんの手伝いをしていて、それから花柳界へ出たのです。豪勢な出世もしたかわりに、これからが寂しいでしょうね、肩の荷のなくなった時分にゃ、もう老《ふけ》込んでしまいますからね」

 名物お鯉の後日譚《ごにちがたり》は、膾《なます》になっても生作《いきづく》りのピチピチとした生《いき》の好いものでなければならないと、わたしはひそかに願っていた。すると、かなしいことにお鯉は永平寺の坊さんの、大黒《だいこく》になったという腥《なまぐ》さい噂《うわさ》を聞いた。おやおやと落胆してしまった。
 願うのではないが、有為の青年と、真に目覚《めざめ》た、いままでの生涯に、夢にも知らなかった誠実を糧《かて》にして、遺産は子供と母親たちに残して、共に掌《て》に豆をこしらえるふうになってしまったときいたならば、わたしはどんなに悦んだであろう、それこそお鯉さん万歳をとなえたかも知れない。しかし、いかに、暖かい褥《しとね》にじっとしていたいからとて、母親の御意のままになるがよいとて、人もあろうに出家の外妾とは、どうした心の腐りであろうと、好きな女であるだけに厭《いや》さが他人《ひと》ごとではないような気がした。とはいえ坊さんにだからとて恋がないとはいえないと弁護をして見ても、お鯉がその青年を捨《すて》てまで、または捨られたとしても、それにかえるに老年の出家を選もう訳がない。そこにはどうしても物質から来た賤《いや》しい目的が絡《から》まなければならない。
 彼女は大森にいると伝えられた。生麦《なまむぎ》にかくれているとつたえられた。鎌倉に忍んでいると伝えられた。
 多恨なる美女よ、涙なしに自身の過去《すぎこ》しかたをかえりみ、語られるであろうか。わたしはあまりに遠くから聴き、また見た記憶のまぼろしばかりを記しすぎた。近づいてあきらかに今日の彼女を知らなければ心ない噂と、遠目の彼女で全体をつくってしまう恐れがある。折よくも彼女は彗星《すいせい》のようにわたしたちの目の前に現われた。銀座のカフェー、ナショナルは彼女が新《あらた》に開いた店だということである。わたしは其処へいって、親しく、近しく、彼女の口から物語られる彼女を知ろうと思う。

       三

 大正九年も終る暮の巷《ちまた》を、夕ぐれ時に銀座の、盛《さかん》な人渦の中を、泳ぐというより漂ってわたしはいった。
 クリスマス前の銀座は、デコレーションの競いで、ことに灯《ひ》ともし時の眩《めま》ぐるしさは、流行の尖端《せんたん》を心がけぬものは立入るべからずとでもいうほど、すさまじい波が響《どよ》みうねっている。これが大都会の潮流なのだろうと、しみじみと思わせられながらわたしはゆく――
 今年の花時、花が散るとすぐあとへ押寄せてきた、世界大戦後の大不況のドン底の年末だとは、銀座へ来て、誰れが思おう、時計に、毛皮に、宝石に、ショールに、素晴らしい高価を示している。そしてその混雑の中を行く人は、手に手に買物を提《さ》げている。高等化粧料を売る資生堂には人があふれている。それも婦人ばかりではない、男が多かった。関口洋品店は流行のショールがかけつらねられて、明るさはパリーなどを思わせるようで、その店も人でざわざわしていた。美濃常《みのつね》では、帽子や、手袋や、シャツや、どれが店員なのか客なのか、見分けられないほどに黒く白かった。わたしはその中をぼんやりと歩いた。
 華やかな笑い声がきこえる。はっと我にかえると羞明《まぶ》しい輝きの中にたっている自分を見出《みいだ》した。そして前には美しいショールの女の五、六人が、中を割って、わたしを通して行きすぎた。すぐまたその後へ、キチンとした洋服の、すこしも透《すき》のない若紳士の群れが来る。わたしはしどろもどろである。乾《かわ》いて来た洗髪にピンがゆるんで、束髪《そくはつ》がくずれてくる煩《うるさ》さが、しゃっきりして歩かなくってはならない四辺《あたり》と、あんまり不似合なのに気がつくと、とって帰したいようになった。
 三丁目で、こんな店も銀座通りにあるかと思うような、ちょっとした小店で、眉毛《まゆげ》を剃《そ》ったおかみさんが、露地口《ろじぐち》の戸の腰に雑巾《ぞうきん》をかけていた。聞きよかろうと思って、カフェーナショナルは何処ですかと問うと、
「知りませんねえ、そんな家は。カフェーっていう洋食やならありますけれど」
 わたしはまた、銀座通りの店にこうした女房《おかみ》さんもあるのかと、お礼を言って離れた。
 尾張町《おわりちょう》の交番でたずねると、交番の巡査は
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