しの背は、歩道からまる見えであると思うと、厚かましい気がしてならなかった。

 さてわたしは此処で、明日にうつるまえに一筆しておかなければならないのは、お鯉を書こうとするに、その人の近事をあまりしらなすぎる。わたしはナショナルで応待した婦人を、店の商業の方には、すこしも関係のない、子たちの家庭教師であろうと、勝手にそう思っていた。あとで人にはなすと、『都《みやこ》新聞』を読まないのかと言われた。わたしは『都新聞』を読んでいなかったので困ったが、お鯉さんの妹で、大変|強《しっ》かりもののおかみさんが、帳場を一切処理しているというから、その婦人でしょうと、その人は言った。勿論それはあとで書くことと前後して、わたしも妹|御《ご》だと知ったあとゆえ驚きはしなかったが、わたしはこれから、この奇《く》しき姉妹と卓をかこんで、打解けた物語をしたあらましを書いて見よう。

       四

 その日は前の日と違って、雨がかなり激しく降っていた。ずっと前に降った雪が解け残って、裏町の日かげなどに汚なくよごれて凍っているのを、洗いながすように、さほど寒くない雨であった。気温は冬としてはゆるんでいた。わたしは人力車を約束の十一時までに着くように急がせた。
 まだ店の窓にはすっかり白い幕が下げてあって、扉《とびら》の片っぽだけ白い布があげてあった。朝のことゆえ遠慮なく戸口を開《あ》けてはいり案内を乞《こ》うた。
 店の中は――白い布を、扉の半開きだけあげた店の中は、幕開き前とでもいうように混沌《こんとん》としている。睡眠気分三、夜明け気分七――昼間がちらと、差覗《さしのぞ》いているといった光景であった。わたしは思いがけぬ「カフェーの朝の間《ま》」というところを見て、劇場の舞台の準備を眺めているような気持ちで佇《たたず》んでいた。
 昨夜は気がつかなかったが、大方外に立てかけられてあったのであろう。クリスマスデナー開催の立札の、框張《わくば》りの大きなのが立《たて》かけてある。食券三円云々としるしてあった。階段の上り口には赤い紙に白く、「世直し忘年会、有楽座において」とした広告ビラが張ってあった。
 鳥打ち帽に縞《しま》の着物の、商人の手代《てだい》らしい人も人待ち顔に立っていた。奥の方から用談のはてたらしい羽織を着た男が出て来て、赤い緒の草履《ぞうり》を高下駄《たかげた》に穿《は》き直して出ていった。わたしは取次ぎをまって佇んでいた。
 何処《どこ》の珈琲店《カフェー》にもある焦茶《こげちゃ》の薄絹を張った、細い煤竹《すすだけ》の骨の、帳《とばり》と対立《ついたて》とを折衷したものが、外の出入りの目かくしになって、四鉢ばかりの檜葉《ひば》や槙《まき》の鉢植えが、あんまり勢いよくはなく並べられている。その後には白蝋石《しろいし》の小卓が幾個か配置されてある。その卓のとっつきの一つで、小柄な娘がナフキンを馴《な》れた手附きでせっせと畳んでいる。頸《くび》に湿布《しっぷ》の繃帯《ほうたい》をして、着流しの伊達《だて》まきの上へ、緋《ひ》の紋ちりめんの大きな帯上げだけをしょっている女は、掃き寄せを塵取《ちりと》りにとったりして働いていた。やがて、お酒と、煙草と、夜更《よふか》しと、おしゃべりとで、声がつぶれてしまったのであろうと思われる、不思議な調子の若い男が、短衣《ちょっき》で出て来て、キャラキャラした声で来意をたずねた。
 短衣の小男は人気者と見えて、すこしの間にみんなから話しかけられていた。階段の下の、酒場の掃除をしている二、三人の娘たちは、その男の名をケンチャン、ケンチャンと呼んでいた。
 酒場の娘の一人はこんなことをいっていた。
「随分飲んだわ、なんとかいっちゃ一ぱい、かんとかいっちゃあ一ぱい……」
「……あたしね、一万円あれば八千円で帯を買って、あとの二千円は……とかする」
 ケンチャンがその時なかなか面白いことを言ったに違いなかった。みんな元気に機嫌《きげん》よく笑ったが、聞きつけないものには、何をいっているのか、あんまりな上声《うわごえ》で、まるでわからなかった。すると、ナフキンをたたんでいた娘が、
「ライオンは多田さんという人がいるのよ、そりゃ面白いってっちゃないの、(よくって多田さん、それじゃこれ無代《ただ》よ、無代《ただ》よ)ってみんなが言うのよ」
 それが、言う人には非常に興味ありげであった。そのとき黒い服を、ちゃんと身につけた給仕長らしい男が迎えに出た。そしてわたしは二階に導かれた。

 表二階の食堂を通りぬけると、間の室《へや》は二階の給仕娘の控室であるらしかった。
 裏階段のあるところで、四、五人が着物を着たり身づくろいをしていた。わたしは其処《そこ》も通りぬけて、奥まった別室へ通された。
 手はこびの暖炉《すとうぶ》がはこば
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