ては、いつまでも止めないから、一度嫁にやってしまおう、そしたら、なんぼなんでも、いくら惚《ほ》れてるからって、あの貧乏じゃお尻が落附くまい、かえって思いきらせるには好いからって魂胆で嫁《や》ったんだって言いますものね。嘘じゃあないでしょうよ、なにしろ強《しっ》かりしていますからね、養母っていう方《ほう》が。――ええ、二人ありますとも、お母さんを二人しょってるのですから、あの女《ひと》も大変ですよ。おまけにお母さん次第になるのだから」
売れっ妓《こ》のお鯉が、洗い髪のおつまが坐らなければならなかった市村の家の、長火鉢の前におさまった当時の様子が、お〆さんの言葉によって見える。おつまは失意の女として、三十間堀《さんじゅっけんぼり》のある家の二階から、並木の柳の葉かげ越しに、お鯉が嫁入りの、十三荷の唐草《からくさ》の青いゆたんをかけた荷物を、見送っていたのだときいている。やがてお鯉も、自分と同じ運命になるだろうと思ったと言ったというが、お鯉もまた二、三年すると、そこの、長火鉢の前の座布団《ざぶとん》の主《ぬし》として辛抱することが出来なかった。恋女房であろうとも、家の者となればあしらいも違う、まして人気商売ということによって、いかな口実もつくられる。その上に内所《ないしょ》は苦しい、お鯉のお宝は減るばかりだった。そこで見て見ぬふりもならぬとなったのは、養われなければならないという二人の老母の、ひそひそ話の結果であった。
去るものは疎《うと》し――別離は涙か、嘲罵《あざけり》か、お鯉は昔日《むかし》よりも再勤の後《のち》の方が名が高くなった。羽左衛門《たちばなや》のお鯉さん、桂《かつら》さんのお鯉さんとよばれる一代の寵妓《ちょうぎ》となった。先夫が人気の頂上にあった羽左衛門であることも、後の旦那が総理大臣陸軍大将であることも、渦巻の模様の中心となった流行《はやり》ッ児《こ》の俳優《やくしゃ》――ニコポン宰相の名を呼ばれ、空前とせられた日露戦争中の大立物《おおだてもの》――お鯉の名はいやが上に喧伝《けんでん》された。
「どうしてどうして現今《いま》のおはるさん(羽左衛門の細君の名)は働きものです。それは自分の持って来たものはあるけれど、どうしても養母《おっか》さんが強《しっ》かりしているから、なくなさせやしません。あの細君が来てから、不義理はみんなかえしたのです」
羽
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