一世お鯉
長谷川時雨
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)妾《めかけ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二代|揃《そろ》って
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ずぼら[#「ずぼら」に傍点]
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一
「そりゃお妾《めかけ》のすることじゃないや、みんな本妻のすることだ。姉さんのしたことは本妻のすることなのだ」
六代目菊五郎のその銹《さび》た声が室の外まで聞える。
真夏の夕暮、室々のへだての襖《ふすま》は取りはらわれて、それぞれのところに御簾《みす》や几帳《きちょう》めいた軽羅《うすもの》が垂《た》らしてあるばかりで、日常《つね》の居間《いま》まで、広々と押開かれてあった。
打水《うちみず》をした庭の縁を二人三人の足音がして、白地の筒袖《つつっぽ》の浴衣《ゆかた》を着た菊五郎が書生流に歩いて来ると、そのあとに楚々《そそ》とした夏姿の二人。あっさりと水色の手柄――そうした感じの、細っそりとした女は細君の屋寿子《やすこ》で、その後《うしろ》は、切髪の、黄昏《たそがれ》の色にまがう軽羅《うすもの》を着て佇《たたず》んだ、白粉気《おしろいけ》のない寂しげな女。
「ほんとに姉さんつまらないや、そんなことをしたって」
主人はそういって、今までのつづきであったらしい会話のきりをつけた。
切髪の女は、なよやかに、しかも悩ましいほほえみを洩《もら》した。すなおな、黒々とした髪を、なだらかな、なまめかしい風もなく髻《もとどり》を堅く結んで切下げにしていた。年頃は三十を半《なか》ばほどとは考えさせるが、つくろわねど、この美貌《きりょう》ゆえ若くも見えるのかも知れない。といって、その実は老《ふけ》させて見せているかも知れない。ほんのりと、庭の燈籠《とうろう》と、室内にもわざと遠くにばかり灯《ひとも》させたのが、憎い風情であった。
「お鯉《こい》さんです」
そうであろうとは思っていたが――
切髪の女は小さい白扇《はくせん》をしずかに畳んで胸に差した――地味《じみ》な色合――帯も水色をふくんだ鼠色で、しょいあげの色彩も目立たない。白い扇の、帯にかくれたさきだけが、左の乳首の下あたりに秋の蝶のとまったようにぴったりと……
黒い夜空ににおいそめた明星のように、チラリチラリと、眼をあげるたびに、
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