れた、温《あったか》いお茶もある、新聞もある、心地よい長椅子もある。しかし土曜の午後を楽しんで鶴見《つるみ》へ一緒にゆく事になっているちいさい甥《おい》が、学校でさぞ待っているであろうと思えば、心|閑《のど》かにしている間が、おしい気がするのだった。室《へや》の隅には二枚折りの金屏《きんびょう》に墨絵、その前には卓に鉢植の木瓜《ぼけ》が一、二輪淡紅の蕾《つぼみ》をやぶっていた。純白な布の上におかれた、小花瓶の、猖々緋《しょうじょうひ》の真紅の色を、見るともなく見詰めていた。
 控間では一時|騒《ざわ》めいていたが、
「貴女もお湯にいらっしやる」
「ええ」
「じゃ御一緒に行きますから待ってて頂戴《ちょうだい》な」
 静かになった。すると、此家《ここ》でか、または裏の家でか、下の方の裏で物音がした。
「お風呂がもう沸きますが……」
「自動車になさいますか、おくるまになさいますか?」
 下男といった調子に聞えた。やがて何処からともなく、お皿やホークの音が、時々ガチャガチャと聞えた。
 もう朝じゃあない、此店《ここ》では商業をはじめたな、と思ったときに戸はノックされた。

       五

 美しいお鯉――わたしは手箱に秘めてあったものが、ほどへて開いて見たおりに、色も褪《あせ》ずにそのままあったように、安心と、悦びと、満足の軽い吐息が出るのを知った。
 お鯉さんは朝のままで、髪も結いたてではなかった。別段おめかしもしていなかった。無地の、藍紫《あいむらさき》を加味したちりめんの半襟に、縞のふだん着らしいお召と、小紋に染めたような、去年から今年の春へかけて流行《はや》ったお召の羽織で、いったいに黒ずんだ地味なつくりであった。
 かわらないのは眉から額、富士額の生際《はえぎわ》へかけて、あの人の持つ麗々しい気品のある、そして横顔の可愛らしさ、わたしは訪ねて来て、近々と見ることの甲斐《かい》のあったのをよろこんだ。
 それに、わたしの目をひいたのは第一に束髪であった。かつてわたしが、束髪のお鯉を見たときは安藤てる子さんとして紹介されたので、桂公爵に仕え麻布に住んでいたおりのことであった。
 思出はさまざまに、あとからあとからと浮みあがってくる、その折お鯉は何事も思うままで、世の憂きことなどは知ろうようもないと思われた時代である。花の三月、日本橋|倶楽部《クラブ》で催された竹柏
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