った。
「しかし、たいしたものだって言いますよ。麻布《あざぶ》のお宅というのはね、あの女《ひと》の居間の天井は、古代更紗《こだいさらさ》で張ってあるのですとさ、それが一|寸《すん》何円てしようっていうのだから剛勢じゃありませんか、何しろ女に生れなけりゃ駄目ですね」
「だが、やっぱり二人|老母《ばあさん》が附いてるのだろう」
「そいつが厄介ですね、別にすぐそばに一軒、家が建っていますがね」
 わたしはぼんやりと、そんなことも聞いていた。

 やがて日露戦争は終局に近づいたが、それに従って国内の景況は不穏になって来た。いわれなき講和、償われぬ要求であると、内閣不信任は喧《かまびす》しい喧噪《けんそう》となった。寵妾《ちょうしょう》お鯉の家に大臣は隠れているといって、麻布の妾宅焼打ちを、宣伝するものがあった。日比谷《ひびや》には騒擾《そうじょう》が起り、電車焼打ちがあって、市内目抜きの場所の交番、警察署、御用新聞社の打|壊《こわ》しなどがはじまり、忠良なために義憤しやすき民衆は狂暴にされ、全市に戒厳令が布《し》かれて三々五々、銃をもち剣を抜いた兵士が街路に屯《たむろ》し、市中を巡羅するようになった。無辜《むこ》の民の幾人かは死し、傷つけられ、監獄につながれたりした。その騒動に、お鯉は何処にかくれていたか、もとより彼女の家は附近に隙間《すきま》なく護衛が配置されてあった。
 その頃のお鯉は出世の絶頂で、勢いは隆々としていた。多くの政客も無論出入していた。大阪の利者《きけもの》岩下は最も頻繁《ひんぱん》に伺候していた一人である。
 秋風一度吹いて、天下の桂の一葉は散った。その大樹のかげによって生ていたものは多かった。そして凋落《ちょうらく》をまぬがれなかった。被《おお》うものがなければ日の目はあからさまである。冷たい霜も降る、しぐれもわびしく降りかかる。木枯《こがらし》も用捨なく吹きつける。さしもに豪華をうたわれた岩下氏もある事件に蹉跌《さてつ》して囹圄《れいご》につながれる運命となった。名物お鯉も世の憂《う》きをしみじみとさとらなければならなくなった。
 五万円の遺産分配――それは名のみ、お鯉のために分けられたというよりは、公爵の遺児で、表面夫人の手には引きとられぬきわ[#「きわ」に傍点]に出来た、泰三、正子、の六歳と九歳になる子たちを、引取って育てていたからのことであった
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