ぬ覚悟で新しい生活の領土を開拓し、生命の泉を見出そうではないかと、勧めはげましたのは奴であった。妻の言葉に暗示を与えられてふるい立った川上は、失敗の記念となった大森の家を忍び出る用意をした。無謀といえば限りない無謀であるが、そのころはまだ郡司《ぐんじ》大尉が大川から乗出し、北千島の果《はて》までも漕附《こぎつ》けた短艇《ボート》探検熱はまだ忘れられていなかったから、川上の機智はそれに学んだのか、それともそうするよりほか逃出す考えがなかったのか、ともあれ、人生の嶮《けわ》しい行路に、行き悩んだ人は、陰惨たる二百十日の海に捨身の短艇《ボート》を漕出した。
短艇日本丸は、暗の海にむかって、大森海岸から漕ぎだされた。ものずきな夫婦が、ついそこいらまで漕いでいってかえってくるのであろうと、気がついたものも思っていたであろうが、短艇の中には、必要品だけは入れてあった。寝具のかわりに毛布が運ばれてあった。とはいえ、幾日航海をつづけようとするのか、夫婦にも目あてはなかった。夫は漕ぐ、妻は万一のおりにはと覚悟をしていたが、夢中で、小山のような島があると見て漕ぎつけた場所は、横須賀軍港の軍艦富士の横っぱらであった。
鎮守府に呼ばれて訊問《じんもん》にあったが、全く何処とも知らず流されて来て、島かげを見付けてほっとした時に夜はほのぼのと明け、それが軍艦であった事を述べて許された。その上、咎《とが》められたのが好都合になって様々の好誼《こうぎ》をうけ、行手の海の難処なども懇篤に教え諭《さと》され、鄭重《ていちょう》なる見送りをうけて外洋《そとうみ》へと漕出した。
四
それからの、貞奴となるまでの記憶の頁は、涙の聯珠《れんじゅ》として、彼女の肉体が亡びてしまっても、輝く物語であろう。遠州|灘《なだ》の荒海――それはどうやらこうやら乗切ったが、掛川《かけがわ》近くになると疲労しつくした川上は舷《ふなばた》で脇腹《わきばら》をうって、海の中へ転《ころ》げおちてしまった。船は覆《くつがえ》ってしまった。奴は咄嗟《とっさ》にあるだけの力を出して、沈んだがまた浮上った夫を背にかけて、波濤《はとう》をきって根《こん》かぎり岸へ岸へと泳ぎつき、不思議に危難はのがれたが、それがもとで川上は淡路《あわじ》洲本《すもと》の旗亭《きてい》に呻吟《しんぎん》する身となってしまった。その報をきいて駈《かけ》付けた門弟たちは、師の病体《からだ》を神戸にうつすと同時に「楠公《なんこう》父子桜井の訣別《けつべつ》」という、川上一門の手馴《てな》れた史劇を土地の大黒座で開演した。それが土地の気受けに叶《かな》い、神戸における楠公様の劇《しばい》である上に、川上の事件は当時の新聞が詳細に記述したので、人気は弥《いや》がうえにと添い、入院費用はあまるほど得られた。川上の恢復《かいふく》も速《すみや》かであった。とはいえ、川上は健康を恢復すれば、またも行方《ゆくえ》定めぬ波にまかせて、海の旅に出ると言ってきかなかった。その折、近くに開かれる仏蘭西《フランス》の博覧会へ日本劇を持込んではとの相談が来た。
それこそ、新生活を開拓しよう、無人島へでもよいから行きつこうと思っていた夫婦には、渡りに船の相談なので、一も二もなく渡航と定め、川上一座一行廿一人は結束して立った。婦人はその中にたった二人、いうまでもなく一人は奴で、一人は川上の姪《めい》の鶴子(在米活動俳優として名ある青木鶴子、後に早川|雪洲《せっしゅう》の妻)で、奴は単に見物がてらの随行、鶴子は彼地で修業するのが目的であった。
亜米利加《アメリカ》のサンフランシスコに一行は上陸した。仲に這入《はい》った人の言葉ばかりを真《ま》に受けて、上陸後四日間ばかりをうやむや[#「うやむや」に傍点]に過してしまうと、仲人《ちゅうにん》は逃亡してしまった。知らぬ間に川上の名義で借入れられた莫大《ばくだい》な借金が残っているばかり、約束になっているといった劇場へいって見れば釘附《くぎづ》けになって閉《とざ》されている。開演しさえすればとの儚《はか》ないたのみに無理算段を重ねていた一行は、直に糊口《ここう》にも差支えるようになり、ホテルからも追出されるみじめさ、行きどころない身は公園のベンチに眠り、さまよい、病犬《やみいぬ》のように蹌々踉々《そうそうろうろう》として、僅《わず》かの買喰《かいぐ》いに餓《うえ》をしのぐよりせんすべなく、血を絞る苦しみを忍んで、漸くボストンのカリホルニア座に開演して見たものの、乞食《こじき》の群れも同様に零落《おちぶ》れた俳優《やくしゃ》たち、それがなんで人気を呼ぼう、当《あた》ろうはずがなかった。窮乏はいやが上にせまる、何処の劇場でも対手《あいて》にはしてくれない。ことに貧弱きわまる男優が女形《おやま》であるときいては、まるで茶番のように笑殺され、見返られもしなかった。
一行は十月の異国の寒空に、幾日かの断食《だんじき》を修行し、野宿し、まるで聖徒の苦行のような辛酸を嘗《な》めた。
シカゴ、ワシントンストリートの、ライリリック座の座主の令嬢こそ、この哀れな、餓死に瀕《ひん》した一行の救い主であった。ポットン令嬢は日本劇に趣味をもっていたので、父親を納得させて川上一行を招くことにした。座主はお嬢さんの酔興を許しはしたが、算盤《そろばん》をとっての本興行は打てぬので、広告などは一切しないという約束のもとに、とにかく救いあげられた。
座主の方で広告はしないとはいえ、開《あ》けるからには一人にでも多く見物してもらいたいのが人情である。そこでどんなに窮した場合にも残しておいた、舞台で着る衣服|甲冑《かっちゅう》に身を装い、おりから降りしきる雪の辻々、街々《まちまち》を練り歩いて、俳優たちが自ら広告した。絶食しつづけた彼れらが、重い鎧《よろい》を着て、勇気|凛然《りんぜん》たる顔附きをして、雪の大路を濶歩《かっぽ》するその悲惨なる心根――それは実際の困窮を知らぬものには想像もつきかねるいたましさである。舞台に立って、児島高徳《こじまたかのり》に投げられた雑兵《ぞうひょう》が、再び起上って打向ってくるはずなのが、投げられたなりになってしまったほど、彼らは疲労|困憊《こんぱい》の極に達していた。百|弗《ドル》の報酬を得てホテルに駈込《かけこ》んだ時には、食卓にむかった誰れもかれも、嬉し泣に、潸々《さめざめ》としないものはなかったという。
一座はその折、女優がなかったために苦い経験をしたので、奴は見兼ねてその難儀を救った。義理から、人情から、それまで一度も舞台を踏んだことのなかった身が一足飛びに、勝《すぐ》れた多くの女優が、明星と輝く外国において、貧乏な旅廻りの一座のとはいえ、一躍して星女優《プリマドンナ》となったのである。しかし、暫くの間はほんの田舎《いなか》廻りにしか過ぎなかったが、かえってそれは、マダム貞奴としての要素をつくる準備となったといってもよいが、一行の難渋は実に甚だしかった。ボストンへ廻って来たおりには、心労の結果川上が病気に罹《かか》り、座員のうち二人まで異郷の鬼となってしまった。
「俺《おれ》が全快するまでは下手《へた》なことをするな。」
川上は病いの床でそう言続けていたが、生活のためには言附けも背《そむ》かなければならなかった。それに為《な》すこともなく日を過しているのでは、悲境に、魂を食われてしまったような座員の団結も頼まれず、座員の元気を鼓舞するには劇場へ出演するに限ると、川上にかくれて貞奴が一座を引連れて出た。多分そのおりのことであろう。二人の座員の死んだのをどうする事も出来ぬので、土地の葬儀会社へ万端のことを頼んでおいた。劇場から帰ってきて見ると死者の髯《ひげ》は綺麗に剃《そ》られ、顔も美しく化粧され、髪も香水がつけて梳《くしけ》ずられてあり、新しい礼装をさせられて花輪を胸に載せ、柩《ひつぎ》の中に横たわらせられてあった。昨日まで食を共にし、生死もひとつにと堅い団結を組んできた一行のものは、その死者の姿を見ると、いかにも安易《やすやす》として清げなさまで、昨日までの陋苦《むさくる》しい有様とはあまり違って、立勝《たちまさ》って見ゆる紳士ぶりに、生きている方がよいか、死んだ者の方がよいかと妙な風な考えになって、頭をさげるばかりだったという話を聴いた。ことに死者の胸に組合せた手の指の爪《つめ》まで綺麗に磨かれてあったという事が、舞台で化粧をこそすれ、何事にも追われがちの不如意の連中には、指の爪のことまで繊細《デリケート》な気持ちを持っていられなかった人々が、感銘深くながめたという有様だった。
病床で川上が言続けていた、フランス・パリーの博覧会――そここそ、マダム貞奴の名声を赫々《かくかく》と昂《あ》げさせたものである。海外にあって最も輝かしかった三ツの歓喜、そのひとつは亜米利加《アメリカ》ワシントンで、故小村公使の尽力で、公使館夜会に招かれ、はじめて上流社会に名声を博し得たこと。またひとつは英吉利《イギリス》で上村大将に遇《あ》い、その力にてバッキンガム・パレスで、日本劇を御覧に入れたこと――たしかそのおり貞奴は道成寺《どうじょうじ》の踊の衣裳のままで御座席まで出たとおぼえている。――もひとつは、仏蘭西《フランス》のパリーで栗野公使の尽力により、一行が熱望しきっていた博覧会の迎えをうけたことである。この事こそ、ほんとに彼れらのためにも、日本劇のためにも前代未聞の出来ごとだったのだ。あらゆる天下の粋を集めた、芸術の源泉地仏蘭西パリーで、しかも、そのもろもろの美術、工芸、芸術品に篩《ふる》いをかけた博覧会々場でである。見る人もまた一国一都の人ばかりでなく、世界各地の人を網羅し尽している。その折に、その中で、耳目を聳《そば》だたして開演する事が出来ようとは、いかに熱望していたとはいえ、昨日までの田舎廻り、乞食芝居の座員には、万に一の希望も絶望であろうとされていたものが――加うるに日本劇川上一座の人気は、空前絶後とされ、夢想にも思いも浮べぬ、彼地の劇界を震撼させたものであった。なおその渡仏の前、ボストンで英吉利の名優ヘンリー・アーヴィングの「マーチャント・オブ・ベニス」が当ったのにかぶせて日本風に改作し「シャイロック」として上演したが、その入場券一|弗《ドル》が三弗五弗というふうに競上《せりあ》げられたというのは、もの珍らしさが手伝ったとはいえ大成功といわなければならない。かくして帰還した川上夫妻の胸には、仏蘭西の芸術家が重く見るオフシェ・ダカジメ三等勲章が燦《さん》としていた。
貞奴、貞奴、その名は日本でより海外に高く拡《ひろ》まった。名実《めいじつ》は川上一座でも、彼の一座でなく彼女の一座として歓迎された。一度帰朝した彼女らは陣容を改め、今度こそ目的のない漫然とした旅役者ではなく、光彩ある日本劇壇として明治三十四年に再び渡欧した。座長はいうまでもなく川上音二郎、星女優《スター》は貞奴、一座の上置きには故藤沢浅二郎、松本正夫、故土肥庸元(春曙)の諸氏のほかに、中村仲吉という女優(この優《ひと》は大柄の美人で旅廻りの女役者としてはほんとに芸も立派な旧派出の女であった)を加えて一行は廿六、七人であった。仏、英、露、独、西、伊、墺、匈の諸国を巡業し到る処で大歓迎をうけた。この興行から帰って来ると故国日本でも貞奴を歓迎して、化粧品には争ってマダム貞奴の仏蘭西土産であることを標榜《ひょうぼう》した新製品が盛んに売出され、広告にはそのチャーミングな顔が印刷されたりした。そして、川上の懇望によって、故郷の檜《ひのき》舞台に、諸外国の劇壇から裏書きされてきた、名誉ある演伎《えんぎ》を見せたのは、彼女が三十三歳の明治卅五年、沙翁《セクスピアー》の「オセロ」のデスデモナを、靹音《ともね》夫人という名にして勤めたのが、初舞台である。そして亡夫の七回忌にあたる大正六年十月、日本橋区久松町の明治座で女優生活十五年間の引退興行を催し、松井松葉氏によって戯曲となった、伊太利《イタリア》の歌劇「
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