、何につけて人というものは深い察しのないものね」
などいってる時は、ただ普通の、美しい繊弱《かよわ》い女性とより見えないが、ペパアミントを飲んで、気焔《きえん》を吐いている時なぞは、女でいて活社会に奮闘している勇気のほども偲《しの》ばれると言った。それでも芝居の楽《らく》の日に、興行中に贈られた花の仕分けなどして、片づいて空《から》になった部屋に、帰ろうともせず茫然《ぼうぜん》と、何かに凭《もた》れている姿などを見ると、ただなんとなく涙含《なみだぐ》まれるときがある。マダム自身もそんなときは、一種の寂寞《せきばく》を感じているのであろうともいった。
 寂寞――一種の寂寞――気に驕《おご》るもののみが味わう、一種の寂寞である。それは俊子さんも味わった。その人なればこそ、盛りの人貞奴の心裡《しんり》の、何と名もつけようのない憂鬱《ゆううつ》を見逃《みの》がさなかったのであろう。
 貞奴は、故|市川九女八《いちかわくめはち》を評して、
「あの人も配偶者が豪《えら》かったら、もすこし立派に世の中に出ていられたろうに、おしい事だ」
といったそうである。これもまた貞奴なればこそ、そうしみじみ感じたのだ。自分の幸福なのと、九女八の不幸なのとをくらべて見て、つくづくそう思ったのであろう。それから推しても貞奴が、どれほど夫を信じ、豪いと思っていたかが分る。川上にしても貞奴に対してつねに一歩譲っていた。貞奴もまた負けていなかったが、自分が思いもかけぬような名をなしたのも川上があっての事だ、夫が豪かったからである、みんなそのおかげだと敬していたと思える。そうした敬虔《けいけん》な心持ちは、彼女の胸にいつまでも摺《す》りへらされずに保たれていたゆえ、彼女がつくらずして可憐であり初々しいのだ。彼女の胸には恒《つね》に、少女心《おとめごころ》を失わずにいたに違いない。
 わたしはいつであったか歌舞伎座の廊下で、ふと耳にした囁《ささや》きをわすれない。それは粋《いき》な身なりをしている新橋と築地《つきじ》辺の女人らしかったが、話はその頃|噂立《うわさだ》った、貞奴対福沢さんの問題らしかった。その一人の年増《としま》が答えるところが耳にはいった。
「それは違うわ、先《せん》の妾《ひと》はああした女《ひと》でしょう。貞奴さんはそうじゃない、あの人のことだから、お宝のことだって、忍耐《がまん》が出来るまでは口にする人じゃなし、それに、ああすればこうと、ポンといえば灰吹きどころじゃなく心持ちを読んで、痒《か》ゆいところへ手の届くように、相手に口をきらせやしないから、そりゃまるで段違いだわ、人間がさ」
 それだけの言葉のうちに以前の寵妓《ちょうぎ》であって、かえり見られなくなった女と、貞奴との優劣がはっきりと分るような気がした。ほんの通り過ぎたにすぎないので、そのあとでも聴きたい話題があったかも知れない。
 順序として貞奴の早いころの生活についてすこし書かなければならない。わたしがまだ稽古本《けいこぼん》のはいったつばくろぐちを抱えて、大門通《おおもんどおり》を住吉町《すみよしちょう》まで歩いて通《かよ》っていたころ、芳町には抱《かか》え車《ぐるま》のある芸妓があるといってみんなが驚いているのを聞いた。わたしの家でも抱え車は父の裁判所行きの定用《じょうよう》のほかは乗らなかったので、何でも偉い事は父親が定木《じょうぎ》であった心には、なるほど偉い芸妓だと思った。一人は丁字《ちょうじ》屋の小照といい、一人は浜田屋の奴《やっこ》だと聞いていた。小照は後に伊井蓉峰《いいようほう》の細君となったお貞《てい》さんで、奴は川上のお貞《さだ》さんであった。浜田屋には強いおっかさんがいるのだという事もきいたが、わたしが気をつけて見るようになってからは、これもよい縹緻《きりょう》だった小奴という人の御神灯がさがっていて奴の名はなかった。そのうちにおなじ住吉町の、人形町通りに近い方へ、写真屋のような入口へ、黒塗の看板《サインプレート》がかかって、それには金文字で川上音二郎としるされてあった。そして其処が奴のいるうちだと知った。またその後、大森の、汽車の線路から見えるところへ小さな洋館が立って、白堊《はくあ》造りが四辺《あたり》とは異《ちが》っているので目にたった。それも川上の新らしい住居《すまい》である事を知った。それは鳥越《とりこえ》の中村座で川上の旗上げから洋行までの間のことである。

       三

 歴代の封建制度を破って、今日の新日本が生れ、改造された明治前後には、俊豪、逸才が多く生れ、育《はぐ》くまれ培《つちか》われつつあった時代である。貞奴は遅ればせに、またやや早めに生れて来たのである。生れたのは明治四年であった。そして後年、貞奴に盛名を与えるに、柱となり、土台となった人々が、みな適当な位置に配置されて、彼女の生れてくるのを待つ運命になっていた。
 もし彼女の生家が昔のままに連綿としていたならば、マダム貞奴の名は今日なかったであろう。新女優の祖《はは》川上貞奴とならずに堅気《かたぎ》な家の細君であって、時折の芝居見物に鬱散《うっさん》する身となっていたかも知れない。
 明治維新のことを老人たちは「瓦解《がかい》」という言葉をもって話合っている。「瓦解」とは、破壊と建設とをかねた、改造までの恐しい途程《みちのり》を言表《いいあら》わした言葉であろう。すべての旧慣制度が破壊された世の渦は、ことに江戸が甚しかった。武家に次いでは名ある大町人がバタバタと倒産した。お城に近い日本橋|両替町《りょうがえちょう》(現今の日本銀行附近)にかなりの大店《おおだな》であった、書籍と両替屋をかねて、町役人も勤めていた小熊という家もその数には洩《も》れなかった。家附《いえつき》の娘おたかは御殿勤めの美人のきこえたかく、入婿《いりむこ》の久次郎は仏さまと呼ばれるほどの好人物であった。そうした円満な家庭にも、吹きすさぶ荒い世風は用捨もなく吹込んで、十二人目にお貞と呼ぶ美しい娘が生れたころは、芝|神明《しんめい》のほとりに居を移して、書籍、薬、質屋などを営んでいた。しかも夫婦は贅沢《ぜいたく》を贅沢としらずに過して来た人たちであったので、娘たちを育てるにもかなり華美な生活をつづけていた。次第々々に家産が傾くと知りつつもそれを喰止《くいと》めるだけの力がなかった。終《つい》に窮乏がせまって来て十二人目の娘を手離すようになった。そしてお貞という娘が、他家で育てられるようになったのは彼女の七歳のときからで、養家は芳町の浜田屋という芸妓屋であった。
 浜田屋の亀吉は強情と一国《いっこく》と、侠《きゃん》で通った女であった。豪奢《ごうしゃ》の名に彼女は気負っていた。その女を養母とした七歳のお貞は、子供に似合わぬピンとした気性だったので、一寸《いっすん》のくるいもないように、養母と娘の心はぴったりと合ってしまった。その点はお貞の貞奴が、生《うみ》の親よりもよく養母の気性と共通の点があったといえる。
 とはいえ、そうした侠妓に養われ、天賦の素質を磨いたとはいえ、貞奴の持つ美質は、みんな善《よ》き父母の授けたものである。優雅、貞淑――そういう社会に育ったには似合わぬ無邪気さ、それは大家《たいけ》の箱入り娘と、好人物の父との賜物である。一本気な持前《もちまえ》も、江戸生れの下町のお嬢さんの所有でなければならない。其処へ養母によって仁侠《にんきょう》とたんか[#「たんか」に傍点]と、歯切れのよい娑婆《しゃば》っ気《け》を吹き込まれたのだ。そうした彼女は養母の後立《うしろだ》てで、十四歳のおりはもう立派な芳町の浜田屋小奴であった。
 廿九歳で後家《ごけ》になってから猶更《なおさら》パリパリしていた養母の亀吉は、よき芸妓としての守らねばならぬしきたりを可愛い養娘《むすめ》であるゆえに、小奴に服膺《ふくよう》させねばならないと思っていた、その標語《モットー》――芸妓貞鑑《げいしゃていかん》は、みな彼女が実地にあって感じたことであり、また古来の名妓について悟った戒《いまし》めなのであった。彼女は言う。
「好い芸妓になるなら世話をして下さる方を一人と極《き》めて守らなけりゃいけない。それが芸妓の節操《みさお》というものだ。金に目がくれて心を売ってはいけない。けれども不粋《ぶすい》なことはいけない。芸妓は世間を広く知っていなければいけない。そして華やかな空気《なか》にいなければならない。地味な世界は他《ほか》に沢山ある。遊ばせるという要は窮屈ではいけない。だからお客よりも馬鹿で浮気な方がよい。理につんだ事が好きならば芸妓にはしゃがしてもらいにきはしない。そこで、浮気なのはよいが、慾に迷えば芸妓の估券《こけん》は下ってしまう。大事な客は一人と極《き》めてその人の顔をどこまでも立てなければならないかわりに、腕でやる遊びなら、威勢よくぱっとやって、自分の手から金を撒《ま》かなければいけない。堅気ではないのだからむずかしい意見はしない。だがよく覚えてお置き、遊びだということを……」
 それは彼女が十六のおり、初代奴の名を継いで、嬌名いや高くうたわれるようになったおりの訓戒だ。賢なる彼女は、養母の教えを強《しか》と心に秘めていたが、間もなく時の総理大臣伊藤博文侯が奴の後立てであることが公然にされた。彼女はもう全く恐《こわ》いものはなしの天下になったのである。総理大臣の勢力は、現今《いま》よりも無学文盲であった社会には、あらゆる権勢の最上級に見なされて、活殺与奪の力までも自由に所持してでもいるように思いなされていた。そして伊藤公は――かなりな我儘《わがまま》をする人だというので憎み罵《のの》しるものもあればあるほど、畏敬《いけい》されたり、愛敬《あいきょう》があるとて贔屓《ひいき》も強かったり、ともかくも明治朝臣のなかで巍然《ぎぜん》とした大人物、至るところに艶材を撒《ま》きちらしたが、それだけ花柳界においても勢力と人気とを集中していた。奴は客としては当代第一たる人を見立てたのである。家には利者《きけもの》の亀吉という養母が睨《にら》んでいる。そして何よりも――眠れる獅子王《ししおう》の傍に咲く牡丹花《ぼたんか》のような容顔、春風になぶられてうごく雄獅子の髭《ひげ》に戯むれ遊ぶ、翩翻《へんぽん》たる胡蝶《こちょう》のような風姿《すがた》、彼女たちの世界の、最大な誇りをもって、昂然《こうぜん》と嬌坊第一にいた。
 彼女も、そうした社会の女人《にょにん》ゆえ、早熟だった。彼女は遊びとしては、若手の人気ある俳優たちと交際《まじわ》っていた。そして彼女がもっとも好んだものは弄花《ろうか》――四季の花合せの争いであった。金《かね》びらのきれるのと、亀吉仕込みの鉄火《てっか》とが、姿に似合ぬしたたかものと、姐《ねえ》さん株にまで舌を巻かした。
 奴の芸妓としての盛時は十七、八歳から廿一歳ごろまでであろう。
 奴は芸妓時代から変りものであった。その時分ハイカラという新熟語《ことば》はなかったが、それに当てはめられる、生粋《きっすい》なハイカラであった。廿二、三年ごろには馬に乗り、玉突きをしたりしていた。髪もありあまるほどの濃い沢山なのを、洗髪の捻《ねじ》りっぱなしの束髪にして、白い小さな、四角な肩掛けを三角にかけていた。大磯の海水浴の漸《ようや》く盛りになった最中、奴の海水着の姿はいつでも其処に見られ、彼女の有名な水練《すいれん》は、この海でおぼえたのであった。
「奴が来ておりましたよ、大磯の濤竜館《とうりゅうかん》に……男見たような女ですね、お風呂《ふろ》で、四辺《あたり》にかまわないで、真白に石鹸《せっけん》をぬって、そこら中あぶくだらけにして……」
 そんなことを、あるおり、某華族の愛妾が言っていたことがあった。その語《ことば》のなかには、すこし反感をふくんだ調子があったが、
「沢山な毛髪《かみのけ》のなんのって、お風呂の中でといて、ぐるぐると巻いているのを見ると、ほんとにその立派なことって……」
 彼女の傍若無人であったことには
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