にはとれないほど準備した興行ぶりであった。住む家もこれからの生活も安定なものである事は誰れも知ったことで、無常を感じたり、禅機などから一転して急に世からのがれたくなったのではない事はあんまり知れすぎていた。それゆえに、草の中へでもかくれてしまおうというような「とりあえず」には思いおよぶことが出来ない。もしもまた、亡夫川上の墓石もたてたから、これをよい時機として役者を止《や》めようとしたのであったならば、貞奴の光彩のなくなったのも尤《もっと》もだと、頷《うなず》かなければならないのは、あれほどの人でも役者をただ商売としていたかと思うそれである。
 思わずも憎まれ口になりかかった。わたしがそう言うのも、その実は、この女優の引退をおくるに世間があんまり物忘れが早くて、案外同情を寄せなかったことに憤慨したゆえでもあった。わたしはせめてこの優《ひと》に培養《つちかわ》れた帝劇の女優たちだけでも、もすこし微意を表して、所属劇場で許さなくとも、女優たちの運動があって、かの女の最終の舞台を飾り、淋しい心であろう先輩を悦ばせてもよかったであろうにと思った。
 彼女は日本の代表的名女優として海外にまでその
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